京都小旅2020 〜室町時代を偲んで〜

今回の旅の主目的はかねてより行きたいと思っていた金閣銀閣です。
そんでもって金閣銀閣があるのは京都、京都と言えば史跡史跡のオンパレード、金閣銀閣だけに行くのではなんか勿体ないですよね。
ならせっかくだから、金閣銀閣が作られた室町時代の史跡に焦点を絞って京の町を歩こうというのが今回のテーマです。
ってことでいざ実地に見てみた室町史跡ですが、なるほど改めて、室町時代ってのは訳わからないカオスなおもしろい時代だったんだなということが感じられました。
それでは超有名所の金閣銀閣から、え?どこだよそこの花の御所、その名は有名なれどその実態はあまり知られていない応仁の乱をお話をお楽しみ頂けたらと思います☆


花の御所 〜影が薄いよ室町幕府〜


果たして「花の御所」という名前を聞いて、それが室町幕府の政所だったということを知っている人がいったいどれだけいることでしょう?


近くに咲いていた桜(※たんなるイメージです)


っていうかそもそも室町幕府自体、日本史上に誕生した他二つの幕府に比べるとずいぶんマイナーな幕府なのではないかと思います。まずは開祖の足利尊氏からして鎌倉幕府を開いた源頼朝、江戸幕府初代将軍・徳川家康に比べると、よく分からない人というのが一般的イメージではないでしょうか?
また、江戸幕府における江戸城、いざ鎌倉!の鎌倉幕府に比べると、室町っていったいどこなんだよって感じですし、"花の"御所っていう名前からして軟弱感にあふれております。
室町幕府は初代尊氏がキップよく配下の武士たちに土地をバラまきまくったために、将軍家たる足利家には直轄の領地や軍隊というものが殆どありませんでした。そんなこんなで室町幕府は設立当初から権力基盤が脆弱で、歴代将軍もその殆どがロクな目にあっておりません。ってことで簡単に室町15代将軍がどれだけ不幸だったのかを簡単に解説すると・・・

初代尊氏:
この人のときに朝廷が南北に別れる。腹心であった弟の直義と骨肉の争いを繰り広げる。

二代義詮:
空気の薄い人。南朝に京都を奪われて落ちること2度3度あり。

三代義満:
南北朝合一を成し遂げ有力大名の統制に成功、絶対権力者になり天皇家の簒奪まで図るものの、その直前に急死。(暗殺の可能性濃厚)

四代義持:
可もなく不可もなく将軍職を務めあげるも自身の死に際し、「後継者には誰を選ばれるのですか?」と問われ、
「自分が誰かを指名しても、有力大名の支持を得られなければどうしようもない」と答え、後継者を決めないまま死亡。

五代義量:
有力大名の合義により17才で将軍になるものの、有力大名に全く頭が上がらず酒浸りの毎日を送り19才で急死。

六代義教:
史上唯一、クジ引きによって選ばれた将軍。そのため自分を推挙した有力大名というものが存在しないためそのしがらみに捕らわれることなく独自の政治を展開。三代義満と同様、有力大名の統制に成功し、絶対権力を握るもその絶頂期に暗殺される。

七代義勝:
義教の急死により8才で将軍となるも9才で早世。

八代義政:
有力大名と側近の間で優柔不断な態度をとり続け、応仁の乱を引き起こす。最後は銀閣にて悠々自適の生活を送る。

九代義尚:
応仁の乱後、一時的に将軍家の権威を回復するも、反乱を起こした六角高頼を倒すべく諸大名を率いての親征中に病死。

十代義植:
諸大名の合議により擁立されるも、管領・細川政元と対立し失脚(明応の政変)京の街を追われて流公方と呼ばれるようになる。なおその後、十一代義澄から将軍職を奪還するも(後述)その後またまた有力大名の支持を失い京を追われる。

十一代義澄:
細川政元に擁立されるも、もちろん政元の傀儡以上の存在にはなり得ず。政元死後、中国の大大名・大内義興に担がれた先代流公方・義植に京を奪還され近江に落ち延びそのまま死去。

十二代義晴:
義植派諸大名と義澄派諸大名の和睦により、間をとるような形で11才で将軍に擁立される。その後は諸大名の抗争に巻き込まれ続け、京都を落ちること2度3度。最後は近江の地で死去。

十三代義輝:
衰退しきった将軍家の権威を取り戻そうと精力的に活動。だがそれを目障りに思った一派により暗殺される。その最後は自ら将軍家秘蔵の名刀を畳の上に刺し並べ、襲い来る刺客をばったばったと斬り伏せたとの伝承があり、剣豪将軍と呼ばれる。

十四代義栄:
義輝を暗殺した一派に擁立されるも、反対派大名の猛反発を受け、最後まで京に入れないまま死去。

一五代義昭
織田信長に擁立されて京に入り将軍となるものの、信長の傀儡であることに嫌気がさして信長と対立。信長包囲網を作り上げ信長を追い詰めるも結局は信長に敗れ京を追放される。最後は豊臣秀吉の御伽集として余生を送る。
※詳しくはこちらをご覧ください。

改めてこうしてみてみると室町将軍、有能が故に殺されるか、操り人形として諸国を流浪するパターンが大半ですね(^^;
そうかと思えば一番悠々自適な生涯を送ったのが日本最大の乱を引き起こした足利義政というのもなんともはや面白いものです。

ってことで今回はこの貧乏くじばかりを引かされる室町将軍の政庁御殿、花の御所跡を訪ねてみたのですが・・・


室町通りっていうからこの辺かな?

グーグルマップで表示されたあたへんに来たのですが、一向にそれらしいものが見当たりません(^^;


・・・もしかしてあれ?

お?なんか石碑みたいのを発見! でもまさかあの床屋さんが・・・?と思って近づいてみると・・・


やっぱりこれで合ってるじゃん!

はいなんと!日本史上たった3つしか存在しない幕府のうちの一つがあった場所にある史跡はこれだけでした(><)
かつて足利義満の全盛期にはきらびやかな花にあふれていたから花の御所と呼ばれていたというのが今ではこのありさまです。


すぐ近くに市役所分庁舎がありましたけどね

花の御所の石碑から100m近く離れたところにあった市役所の分庁舎の前はちょっとした花壇になっておりました。まさか花の御所をイメージしてそうしている訳ではないと思いますけどね(^^;
いざ実地に花の御所を訪れてみて、なるほどやっぱり世間一般的には誰が何をしたのかよくわからない影の薄い室町幕府なんだなと実感させられました。


花の御所
京都市江地下鉄 今出川駅の近く


金閣・銀閣 〜至高の栄華と究極の堕趣味〜

京都でも1,2を争う観光名所の金閣と銀閣。小学生時分のアタシは、

「金閣キラキラ悪趣味でだっせー、銀閣シブくてかっけえええ」

みたいに思っておりました。


シブ銀閣

実際のところ、芸術作品として評価するならば、銀閣の方が上なのではないかと思います。なにしろ当代随一の文化人であった足利義政が、東西一流の文化人建築士を集めて金に糸目をつけずに作ったものなのですから。


確かに見事な庭園だ

一方、金閣の方はどうなのかと言えば、強大な権力を握った絶対権力者としては日本史上ベスト5に入るであろう足利義満が、自らの権勢をひけらかすために金に糸目をつけずに作らせたものです。


成金閣

それならなるほど、小学生時分のアタシが抱いた感想というのもあながち間違いでは無いのかなと思います。
でもその後、室町時代の歴史を勉強するにつれ、

「銀閣しょっぼ、金閣かっけええええ」

と言う意識改革が起こりました。
なぜアタシにそのような変化があったのかと言えば、それは作った人物のスケールと、その建築コンセプトについて、小学生時分に比べてより深く知ることになったからです。

まずは最初に金閣の方からお話しますと、
先ほど少し書いたとおり、この金閣を作ったのは泣く子も黙る超絶大権力者であった室町幕府第三代将軍の足利義満で、そのコンセプトは自らの権力の誇示です。
金閣とは三階建てで、1階は平安貴族の屋敷によく見られる寝殿造り、2階は武家の屋敷によく見られる書院作り、そして3階は自らが帰依する禅宗様式となっており、屋根の上には徳ある天子のもとに舞い降りると言われる(黄金の)鳳凰が羽根を広げております。


実は深い意味がある

この建築様式がどのような意味を持つかは考えるまでも無いでしょう。武士は貴族よりも上の存在で、自らは最上界に君臨する有徳の天子であるということを示しているのです。


壮大なる夢のあと

なにしろ義満は、室町幕府創設以来、目の上のタンコブであった南朝を壊滅させることに成功し、将軍をもしのぐ力を持ってしまっていた強大な大名たちをも全て従属させてしまったという日本史上屈指の大政治家です。しかもそのうえ、この足利義満は、天皇家を乗っ取って自らが天皇になろうとしたというのですから凄いものです。日本史上、天皇家をしのぐ権力を手に入れた者は数あれど、天皇位という日本の神の地位にまで挑戦した者はこの足利義満くらいしかおりません。
かつて己が実力で絶大なる権力を手に入れて、果ては天をも掴もうとした室町の大巨人・足利義満の夢の跡、それがこの金閣なのです。


どーでもいいけど途中にこんな店がありましたw

一方、銀閣の方はどうなのかと言えば・・・
銀閣を造った八代将軍・義政は、応仁の乱のときの将軍です。この応仁の乱の原因や経過については諸説あるところですが、その責任の大半は義政にあると言って差し支えないでしょう。
戦っている当事者たちですら何がなんだか分からないまま続いた応仁の乱は、開戦後10年を経てようやく収束したものの、京の街は灰燼と化してしまいました。
そこで京の都を未曾有の大混乱に陥れた張本人たる足利義政はどうしたか? 京の都の復興に奔走したか?あるいは責任を感じて出家でもしたか?いえいえそんなことはありません。なんと!ようやく頭痛のタネが無くなったということで、庶民や寺社、貴族などから臨時の税を取り立てて自らの趣味の域を凝らした別荘の建築を開始したのです! その東山別邸こそが銀閣であることは言うまでもありません。


無責任金持ちボンボンの引き籠り邸

義政は応仁の乱の原因を作ったのみならず、子の義尚に将軍職を譲り銀閣に引きこもったあともハンパに政治に介入しては問題を引き起こし、政治家としては三流以下もいいところでした。
だがしかし、文化人としての審美眼は超一流で、義政がパトロンとなって金を出したことによりこの時代の絵画、能、庭園などが東山文化として花開いたと言っても過言ではありません。


このセンスはただものじゃねえ

今となっては当たり前な枯山水という形式の庭園ですが、普通に考えればむしろ邪魔者のお掃除対象となるコケを主役に持って来るという発想がまずすごいです。


絶妙な荒廃感

そんでもって義政は有り余る金とヒマを駆使すればいくらでも派手珍しい木や花やきれいな石を手に入れられるたであろうに、あえて松など花をつけない針葉樹ややゴツゴツ岩を持って来るというセンスもすばらしい(><)


やるじゃん銀閣

↑に書いた通り、正直アタシは実際に訪れてみるまで、この銀閣という建物にはさほどに探索心が沸いてはおりませんでした。あくまで金閣との対象物として見ておこうと思っていたくらいで。
でもいざ現物を見てみると、その芸術性の高さに圧倒感動することとなりました。
一方の金閣の方は、最初に思い抱いていたイメージ通りのものであり、天を掴もうとした男のスケールのデカさに震え涙が出そうになりました。

金閣と銀閣・・・造ったのがそれぞれ日本史上屈指の名政治家と日本史上最大の乱を引き起こしたダメ将軍なら、その外観はコテコテ成金趣味と詫び寂び文化の真骨頂と、なんとも対照的ではありませんか。
引きこもりダメ人間のオタク趣味の結晶と大政治家の壮大なる栄華の夢のあと・・・どちらも甲乙付けがたい面白さがありますが、アタシはやはり金閣の方にあこがれを持ちます。


やっぱこっちだな


金閣
京都市北区金閣寺町1

銀閣
都市左京区銀閣寺町2


北野天満宮 〜天まで届け梅の香よ〜


室町時代を偲ぶ京都小旅において、花の御所から金閣に向かう途中でたまたまこの北野天満宮を見つけました。


そういえば

そういえばお友達の娘さんが受験の時期だったし、今はちょうど梅の花が咲くころだし、それならいっちょ寄り道してみるかとお参り&梅見をしてくることとしました。


合格祈願!

ってことでこの北野天満宮がどういう神社なのかを簡単に解説すると、学問の神様・菅原道真が祀られた合格祈願に特にご利益があり、梅の花が綺麗なことで有名な神社なのです。
ではなぜ菅原道真が学問の神様で、その神社には梅の花がたくさん植えられているのかと言いますと・・・


梅の花も有名

もともと学者の家系に生まれた菅原道真はその菅原一族の中でも特に学問に秀で、やがてその才能を活かして時の宇多天皇に重用されます。
しかしながらその当時は藤原氏が他の公家を蹴落として藤原全盛期を作ろうと絶賛邁進中の時勢でした。菅原道真もその例にもれず、藤原氏の陰謀により無実の罪で九州の太宰府に左遷され、そのまま無念の死を遂げてしまったのです・・・
それから数年後、道真を陥れた連中が次々と不可解な死を遂げることにより、人々はそれを道真の祟りなのではないかと考えます。平安の人々は怨霊や祟りといったことを大真面目に信じておりましたので、道真の霊を慰めるため、道真を学問の神様として北野天満宮に祀ることとしたのです。


別れがおしい・・・

道真は九州に流罪されるに当たり、このような歌を詠みました。

東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春をわすれそ


春になったら

これは道真が大切にしていた梅の木に対して詠んだ歌で、要するに、自分はこれからお前のもとを離れるが、春を忘れずきれいな花をつけ香ってくれ。というような意味かと思われます。


天まで届け

この北野天満宮に咲いた梅の花の香が、とおく九州、果ては天に昇ったであろう道真の下に届いてくれているといいですね。


北野天満宮
京都市上京区馬喰町

上御霊神社 〜応仁の乱開戦の地〜

人世でむなし応仁の乱・・・室町時代に起こった日本史上最大にして最長の戦にして戦国時代の夜明けとして語られるこの大乱ですが、その実像は未だにハッキリしておりません。
かつての教科書通りの通説では・・・

1. 八代将軍・足利義政は将軍を引退したがったが子供がいなかったので、弟の義視に将軍職を譲ろうとする。

2. 義視は有力大名の細川勝元を後見人とし、もし今後、義政に子供ができても自分を将軍にすると約束させる。

3. その後すぐ、義政と正室・日野富子との間に子供・義尚が生まれる。

4. 富子は我が子を将軍にするために大大名の山名宗全を義尚の後見人に添え、義政に対して義視との約束を取り消すようせっつく。

5. 義政どちらを将軍にするか決められず。勝元と宗全が次期将軍をどちらかにするかをめぐって対立。そこに細川山名と同等の大大名・畠山家の相続問題が重なって応仁の乱となる。

という感じで説明されておりましたが、現在この説はやや否定されております。
従来の説では、1番の原因が将軍家の跡目争いで、そこに畠山家の相続問題が重なったように言われておりましたが、現在ではその逆で、どちらかと言えば畠山家の相続問題の方が主たる原因で、そこに将軍家の跡目争いも重なったという考えの方が主流です。
もっともこれは、あくまで将軍家の争いと畠山家の争いのことを比べたらどちらが重きをなしたかの話であって、実際はさらにそこに、古き名門・細川勝元と新興勢力・山名宗全の対立、細川勝元・山名宗全と言った"大名"と、伊勢貞親ら"将軍側近"らの対立なども絡んでいるので話は簡単ではありません・・・なればこそいまだ応仁の乱はこういうものだったという分かりやすい通説が存在しないのです。
でもそんなわけ分からんむずかしい応仁の乱ですが、その戦端はハッキリしております。これは幕府の裁定に不満を持つ畠山家の一方の後継者候補・畠山政長と畠山義就が戦った「御霊合戦」から応仁の乱が始まりました。


花の御所から数百メートル

畠山政長が、言うことがコロコロ変わる足利義政に軍事的圧力をかけるために布陣したのが、この花の御所の近くにある上御霊神社です。


ここから全てが始まった

こうなってはライバルにして将軍・義政の支持する畠山義就も黙ってはおらず、上御霊に出陣して畠山政長を蹴散らしたのでありました。
これを機に畠山政長を支持する細川勝元派の大名又はその後継者候補と、畠山義就を支持する山名宗全派の大名又はその後継者候補が京に集結し、その後10年に及ぶ大乱に発展したのです・・・


どうしてこうなった・・・

なぜ日本を真っ二つに割る大乱が起こったのか?
その責任の大半は優柔不断将軍の足利義政にあります。義政が最初から、畠山の後継者はこっち!将軍の後継者はこっち!とハッキリさせておけばよかったのです。でも実際はそうではなくて、こっち!・・・に一度は決めたけど、反対派がうるさいからやっぱりあっち・・・いややっぱりそれじゃあ向こうも黙っていられないしなあ・・・みたいな感じで双方に希望を持たせてしまったから、二つの派閥ができてしまうのです。
後継者とは最終的には1人に絞られることになり、そうなれば後継者にならなかった方に属した方は路頭に迷ってしまうので必死にならざるを得ません。
また、その争いをタネにしてのしあがってやろうという野心家も存在します。もし劣勢な方について逆転勝利に導くことができたのなら、その後の栄華が約束されるのですからね。応仁の乱も戦国時代も、結局そういったことの積み重ねで起こったことなのです。
もし最高権力者がビシっと早めの決断をしていれば、派閥も生まれず骨肉の争いも起こらないのです。


どうか不屈の決断力を!

京の町を灰燼と化し、日本という国を100年以上にわたる戦国時代へと誘うきっかけとなった応仁の乱、その開戦の地は現在、ひっそりと梅が花咲き涼やかに松の木が生えそろう静かな鎮守の森となっております。


上御霊神社
京都市上京区上御霊竪町495番地


おまけ 京都の町を食べ歩き♪



まずは金閣で雅なお茶室を見つけたよ(^^)


金閣デザインの砂糖菓子♪上品な甘さでおいし〜☆


春の気持ちいい日差しをあびての楽しいお茶会だね(^^)


北野天満宮ではおだんごとタコ焼きを食べたよ☆


大きなタコ焼きに甘味噌だんご♪ 今日はほんとにお外で食べる日よりだね(^^)


銀閣からの帰り道♪ おしゃれな湯葉屋さんをはっけん☆


もっちりくっきり歯ざわりなお豆腐って感じでおいし〜☆


湯葉にチーズってすんごくよく合うね☆ 醍醐味の醍醐ってのはこんな味だったのかも(^^)


トロリ葛あん湯葉ごはん♪ いかにも京都の味って感じだよ(^^)
やさしい楽しいおばちゃんにもいっぱい遊んでもらえたし☆楽しい京都食べ歩きになったね(^^)



湯葉料理 に志田
京都市左京区銀閣寺前町14

湯葉コース 2027円

オススメ度/★★★★★


さていかがだったでしょうか室町時代のお話は。
こうして見ると改めて、室町時代っておもしろい時代だったんだなって思います。
アタシもまだまだ室町時代については勉強不足。これからももっともっと室町時代のおもしろいお話やその舞台のなった史跡の知識を仕入れ、また室町散策がしてみたいものですね☆


◆◇◆ お便り感想♪
こちらの掲示板にてお待ちしております(^^) ◆◇◆


戻る

inserted by FC2 system