興聖寺庭園 京を夢見る将軍様〜 (2020.9.3)


以前にも少し書いたことがありますが、歴代室町将軍の大半が、幸薄い人生を歩んでおります。
特に応仁の乱以降、征夷大将軍とは担いでくれた有力大名と運命を共にする傀儡神輿と言ってもいいような存在に成り果てておりました。当時の状況を説明すると・・・

細川Aが勢力を拡大するために足利Aを将軍として擁立すれば、それを良しとしない細川Aの一族の細川Bが、足利Aのいとこの足利Bをかついで京に攻め入って細川A足利Aを追放したかと思えば、今度は細川Cが再び足利Aを擁立しようと動きだしたものの、やっぱり足利Bとは反りが合わなかった細川Bが足利Bと縁を切って足利Aと仲直りしてついでに細川Cも自派に組み込んで改めて細川Aと対立するみたいな訳の分からない状況が続いていたのです。
・・・ってアタシ自身書いててなんだかよく分からなくなって来ましたけれど、実際の史実もマジでこんな感じです。細川本家とその分家、足利本家と堀越公方家が↑な感じで集合離散を繰り返し、更にそこに畠山氏や六角氏と言った大大名が絡んだうえに、今度は細川家の重臣の三好氏が勢力を伸ばして主家を脅かしたりするんですからほんと訳がわかりません。

足利第十二代将軍・足利義晴は、まさにそんな室町末期の傀儡神輿将軍の象徴のような存在でした。そもそもなぜ将軍になれたのかと言えば、かつて将軍職を争った足利義澄派と足利義植派が和睦した結果、とりあえず両者の中間的存在である11才の少年を将軍にしておこうかみたいなノリでの将軍就任だったのです。

そのような不安定な立場の名目上将軍でしかない義晴のその後は、畿内の有力大名の権力争いに翻弄される運命となりました。京都を追われること数知れず、あちこちの有力大名を頼っては京都を奪還、そしてまた追われるという繰り返しでした。
最後は管領・細川晴元と対立して京都を追われ、失意のうちに近江・穴太の地で40年の生涯を終えることになるのです。


将軍ゆかりの朽木谷

今回訪れた朽木谷とは、そんな義晴が長きにわたって滞在し京都の奪還を窺った拠点の一つです。
実地に訪れての感想としては、まさに都落ちの田舎という表現がピッタリな場所です。
京の都から十里程度離れた、琵琶湖の裏手のひっそり山奥の朽木の谷は、想像以上に没落感満載のド田舎でした。


都落ち感ハンパねえ

自分はこんなところにまで追い詰められて、一方のライバルが京の都でのうのう将軍やっているっていうんじゃあメラメラ復讐の炎が消えることは絶対に無いだろうなというのが現地を訪れての感想ですね。


せめてこれくらいは

この朽木谷の領主・朽木なんとかさんは、そんな無念の義晴のためにこのような庭園を造って慰めたとのことなのですが、そんな朽木さんの心遣いを当の義晴はいったいどのように感じたことでしょう?


将軍様いかがでしょう?

一時とは言え詫びさび庭園に心を癒され、安らかな心持になれたというのなら朽木さんも庭園造園した甲斐もあったことでしょう。でも残念ながら、アタシはきっと違うと思います。義晴はなまじ立派な庭園を見せられたことでますます帰京の思いを膨らませ、決意を新たに京都奪還を心に誓ったのではないかと思います。


余はこのままでは終わらぬ!

義晴最後の地はこの朽木谷ではなく、近江の穴太という場所に築いた中尾城でした。
義晴は最後の最後まで京都奪還の執念を捨てることは無かったと言います。
でもその病床での最後に及び、

そういえば以前に逃れた朽木谷では見事な庭園を造ってもらったんだなあ・・・

そんなことを少しでも思い出し、少しでも安らかな心持ちになっていたと思いたいものですね。


ちょうどいいタイミングだったんで朝ごはんしましたw


鯖寿司はこのへんの名物らしいです

なおこの朽木谷は義晴の息子、第十三代将軍・足利義輝ゆかりの地でもあります。
剣豪将軍と呼ばれた足利義輝のことについてはまたいつかどこかの機会で改めて語りたいですね。


興聖寺
滋賀県高島市朽木岩瀬374


◆◇◆ お便り感想♪
こちらの掲示板にてお待ちしております(^^) ◆◇◆


戻る

inserted by FC2 system