紀伊半島横断記 (2013年9月17日〜20日) その1

毎年恒例夏休み大旅行ですが、今年はかなりワサワサしたルートを通ることとなりました。

まず初日は、
長野を縦断して岐阜に入り、名古屋に宿泊。

二日目
名古屋から伊勢湾を下って行って伊勢神宮を参拝、それから奈良を横断して和歌山宿泊。

三日目
和歌山市から紀ノ川をさかのぼって奈良に入り、伊賀を通って桑名(愛知伊勢県境)宿泊。

四日目帰還。

ってな感じです。まず今年は伊勢近辺をめぐってみようと思っていたのが、あそこ行きたいココ行って見たいと色々考えているうちに、こんな怪しいルートになってしまったのですよ(^^; でも終わってみれば、我ながら歴史ファン必見な面白いところをいっぱいめぐれる楽しい旅になったかと思います☆ ではではちょっと面白マニアックな歴史旅日記をお楽しみくださいましw


9月17日


岩村城 〜女城主とジゴロ大名〜

日本の戦国時代には、実にユニークな存在がキラ星のごとく輝いております。女城主がいたかと思えば、その城を攻略するのに寄せ手の大将が女城主を口説き落としてしまったなどという冗談みたいなことが起こってしまったのがこの岩村城なのです。


珍しいですよね

信濃(長野県)と美濃(岐阜県)の国境は、武田信玄と織田信長という戦国二台巨頭の最前線でした。そんな大国の狭間でガンガって小城の岩村城を守り抜いていたのは、織田信長の叔母・おつやの方という女城主だったのです。

女が守る城なんざチョロいモンだろとタカを括って岩村城に攻め寄せたのは、武田二十四将が一人、秋山信友でした。でもそこは流石に女とはいえ城主があの織田信長の叔母であり、信長がそんな女性に守りを任せてあるということは物凄く固強い城なのです。秋山信友の軍勢は散々に打ち破られたのです。


いい感じの山城です


「ちくしょう!女が守る城の一つも攻め落とすことが出来ないんじゃあオレはイイ笑いものだ! でも相手が女というならオレにも考えがある・・・待っていろよ未亡人の後家城主!」
冒頭に書いたとおり、秋山信友は城主おつやの方を見事に口説き落として結婚するに至り、そのまま自分が入り婿城主になってしまったのです。
いったい秋山信友はどれほどのイイ男だったのでしょう? とても気になるところですね。


こりゃカタいだろうなあ

こうして岩村城は武田信玄の勢力下に入ったのですが、実の叔母に裏切られた信長のはらわたは煮えくり返るどころの騒ぎでは無かったでしょう。それでも当時の信長は、信長包囲網に四苦八苦しているところであり、とてもじゃないけど岩村城を奪還にしに行く余裕などはありませんでした。なればこそ、この秋山信友の策は成功したのでしょう。


こんなにのどかな城だったのに

そのまま信長が包囲網を打ち破ることなく滅ぼされていれば、秋山信友とおつやの方の未来はバラ色だったことしょう。でもその後、武田信玄が志半ばに倒れ、跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦いで粉砕され、信長との最前線に位置する岩村城の立場は、非常に危ういものとなってしまったのです。
やがて岩村城は、信長の長男・織田信忠率いる5万の大軍に包囲されてしまいます。それでも城兵は、事情が事情だけに必死の防戦をし、なんと5ヶ月もの間、城を守りぬいたのでありました。それでも多勢に無勢、援軍の無い篭城戦です。ついに岩村城は落とされて、秋山信友とおつやの方は、逆さ磔のなぶり殺しにされてしまいました。


哀れ秋山夫妻…

それにしても・・・信長の叔母という立場にありながら、なぜおつやの方は織田家を裏切ってしまったのでしょう? 秋山信友がそんなにイイ男だったのか? 信友はどんなテを使っておつやの方を口説き落としたのか?
歴史には、本能寺の変における明智光秀とか、ナゾの反転をした栗田中将などなど、当人に聞いてみないことには絶対に理由が分からない謎がたくさんあるものです。もしもいつかタイムマシンが発明されることがあるのなら、この秋山信友とおつやの方にも是非とも話を聞いてみたいところです。

岩村城
岐阜県恵那市岩村町 中央道中津川インターより30分


小牧山城 〜戦略の要衝〜

羽柴秀吉と徳川家康の天下分け目の大決戦・小牧、長久手の戦いの舞台となった小さな山です。
小牧、長久手の戦いについては過去に天下人物語にて書いたところでありますが、もう一度簡単に説明すると、秀吉軍は美濃(岐阜県)方面から尾張・三河(愛知県)を拠点とする徳川軍を攻めようとした戦いです。秀吉の動きを察知した家康は早速この小牧山城に兵を進めて秀吉軍に睨みを利かし、この「戦略の要衝」である小牧山城を一足先に奪われた秀吉はいたく悔しがったと言われております。
秀吉、家康という二人の天下人がそこまで欲しがった小牧山とはいったいどれほどの山なのか? それを見るべく足を伸ばしてみました。


これは一目瞭然

なるほどもうこれは論ずるまでもありません。紛れも無く戦略上の要衝でしたよ小牧山は。
アタシは過去にいくつもの山城を登っておりますが、遠目でも一目でこれが目当ての城だと分かったのは、この小牧山城と岐阜城くらいなものです。
そもそも山というものは、都市の部にポカンと一つ立っているというのはとても珍しく、フツーは峰々な山地になっているものですよ。で、アタシが過去に探索した山城とは、そんな山々な中でも特に見晴らしのイイ山に建っているというのが大概のパターンなので、遠目には何処が目当ての城なのかは分からないことがほとんどなのですよ。でもこの小牧山は、5kmくらい離れた先からでも一目で場所が分かったのですから。


町のド真ん中

なにしろこの小牧山の登山口のまん前は、小牧市役所の本庁舎なのですよ。市役所と言えばフツーはその都市のド真ん中にあるものです。小牧山とはそんなド真ん中にひょっこり聳え立っているうえに、思いっきり名古屋市の入り口付近の見張り台のような場所なのですよ。そりゃあ家康と秀吉が躍起になって欲しがる訳です。


眼下は一目

登って見た感じも、なんでこんなに疲れる(略)な山ではなく、丁度イイ感じに築城陣立てが出来そうな地形です。見晴らしはイイし兵も綺麗に配置できるしで、正に前線基地を作るためにあるような山ですね。


なかなか立派だ

標高100mもなさそうな山頂には、こんな模擬天守閣博物館が建っております。アタシ的にはそんな建物にも中身にも大した興味は無いのですが、そのてっぺんからの景色だけは是非とも見たいと登ってみました。そのとき撮ったのが↑の写真です。

今から500年前に、この場所から秀吉軍を見下ろしたであろう家康はどんな気持ちだったことでしょう? 戦略の要を押さえたことによって勝利を確信していたか、あるいはウンカのごとくな秀吉の大軍を見て、やっぱりケンカを売ったことを後悔していたのか・・・そんな想像が出来ればこそ、城巡りは止められないのですよ。

小牧山城
愛知県小牧市 小牧市役所まん前


熱田神宮 〜天は我に味方せり!〜

名古屋駅から2駅の場所にある熱田神宮は、明治神宮、伊勢神宮などと同等の格式を誇るエラいエラい神宮です。そんなご利益高そうなお宮様にいったい何をお願いしに行ったのかと言えば、実はお参り目的では無かったりします。
アタシの歴史旅のコンセプトは、歴史上の何かがあった場所に行き、歴史の当事者たちはそのときその場で何を思ったのかを想像するというものです。ならばこの熱田神宮で何があったのかと言えば、あの第六天魔王と呼ばれた神をも恐れぬ織田信長が、よりにもよって熱田の神に戦勝祈願を行ったというのですからタダ事ではないのですよ。


めちゃくちゃ広い!

1560年5月・・・尾張の国は揺れに揺れておりました。
今川義元の大軍が尾張に向けて進軍中! 丸根と鷲津の砦を陥落させて、いよいよ本拠地の清洲城も風前の灯火か!? という非常事態だというのに、主君の信長は一向に動こうとしません。ロクに軍議にも顔を出さない信長に家臣一同は呆れ返り、もはや尾張もこれまでかと落胆していると、信長は突然舞いを舞い始めたのです。

人間五十年、下天のうちをくらぶれば・・・

きっと家臣一同はコイツいったい何を血迷っているんだと目を疑ったことでしょう。そんな呆然状態な家臣たちを横目に、今度は信長は突如鎧を着込んで馬に乗って走り出したのです。

「おぬしら何をボサっとしておる! 今すぐ出陣じゃー!」

信長が動かなかったのは義元軍の動向を探っていたためで、義元軍の居場所が分かったからこそのこの急な出陣。信長が舞った「敦盛」とは、人生たかだか50年なんだからせめて一花咲かせようではないかとの決意表明。
ココにきてようやく信長の真意を悟った家臣たちは、ただ一騎駆け出して行った信長の後を追って行ったのでした。


信長の駆けた道?

このとき信長が向かった先こそが熱田神宮だったのです。この熱田神宮で信長は戦勝祈願をしつつ部隊の集結を待ったとのことです。
昔は何かする際の集合場所には、分かりやすく広いという理由で神社がよく使われておりました。なので部隊の集合場所に熱田神宮を選んだからと言って、神をも恐れぬ信長が、本気で神に祈ったかどうかは分かりません。


お祈りしたくなる社

実際に熱田神宮に足を運んでみると、この荘厳な雰囲気で静まり返った鎮守の森に足を踏み入れて、お祈りしようという気にならない人はいないのではないかと思いました。なのできっと信長も、熱田神宮の神様に本気で戦勝祈願をしたのではないかと思いたいところですが、やっぱり信長は信長なんですよね。これがもし、家康や秀吉だったれば、きっと戦勝祈願をしたんだろうなと思うところですが、信長だったら話は別だなとも思えるんですよ。


ここに全軍集合?

どっちにしても、信長がこの熱田神宮を訪れて部隊を集結させて、それから降り出した雨を見て、

「天は我に味方せり!」

と叫んで桶狭間に向かって進撃して行ったことは事実です。その時の信長の気持ちはまるで想像がつきませんでしたけど、この場所で信長が部下に対して檄を飛ばして出陣したんだなと思うだけで胸が熱くなりましたので良しとしておきましょう。
信長が本気で神に祈ったのか祈らなかったのか? もしもいつかタイムマシンが発明されることがあるのなら、ぜひとも信長に聞いてみたいところです。

なおいつものパターンだと、このまま桶狭間古戦場跡に出撃するというのが定石なのですが、残念ながら桶狭間の戦いが何処であったのかはハッキリしていないのですよ。
それでもいちおう、ココこそが桶狭間古戦場跡だ!と言い張っている場所が二つほどありまして、それぞれが我こそが本物であると主張していがみあっているとのことです。
なんともスケールの小さいことで、悲しくなって来ますね。

熱田神宮
愛知県名古屋市熱田区 JR名古屋駅から2駅



9月18日


伊勢神宮 〜一生一度のお楽しみ〜

明治神宮、熱田神宮などと並んで日本で一番の格式を誇るこの伊勢神宮、古くは江戸の昔から、お伊勢参りの社として日本国民全員に親しまれておりました。
なんでも江戸時代の農村では、子供がしっかりと成人した暁には、村のみんなで積み立てたお金を持たせてお伊勢参りをさせていたとのことです。きっとそれは、一生に一度くらいは可愛い子に旅をさせてやりたいという、村全体の親心だったのでしょう。

というわけで江戸時代の東海道は、お伊勢参りの旅行客でずいぶんとにぎわっていたようです。そのように親しまれた東海道なればこそ、弥次さん喜多さん道中記なんてものも流行ったのでしょうね。ようやく念願のお伊勢参りに旅立った若者は、きっと胸をわくわく躍らせて東海道をひた歩いていたことでしょう。
そんな日本人の心のオアシスとも言えるお伊勢参りに、アタシは齢40にしてようやく出かけることに相成ったのであります。


弥次喜多道中?

という訳なので、アタシはこの伊勢神宮には特に何かをお参りしに来たという訳ではありませんw 江戸時代のお登り百姓な気分を堪能したいというのが今回のお伊勢参りミッションです。残念ながら東海道を歩くことなく高速道路での車移動となりましたけどね。

この日は台風一過後の晴天だったという事情もあるのですが、この伊勢街道は高配と周りの景色感が絶妙で、とにかく眺めがイイのです。
おそらくは自分の生まれ育ったムラのことしか知らない農民の若者たちがどれだけワクワクしながらこの伊勢街道を歩いたのかはよっく分かりました。


江戸時代のイオンモール?

長い長い伊勢街道を抜けた先には、お伊勢様の門前町が賑わっております。なにしろ江戸時代にはイオンやショッピングモールなどは無かったのです。現代人のアタシですらもこの門前町にはめっちゃテンション上がったんですから、江戸時代の若者たちが、こんな楽しげなお店の集まりに遭遇したら、いったいどれだけワクテカするのやら。そりゃあ村総出で一度くらいは若者をお伊勢参りに行かせてやらなきゃ可哀相とも思うでしょうねえ。


石のじゅうたん道

ココから先は、長い長い参道です。玉砂利がひたすら敷き詰められたこの鎮守の森は、これだけ観光客でにぎわっていても荘厳さは全く失っておりません。


木漏れ日が綺麗

門前町でキャッキャキャッキャ騒いでいたら、今度はこんな神秘の森に案内させるのですから伊勢神宮とはすごいところですよ。


ぐぬぬ残念

気持ちが落ち着くこと10分ほどで辿り着いた奥の院なのですが、残念ながら今は何十年かに一度の遷宮をやっているとのことで、中に入ることは出来ませんでした。でもでもそれでも、この荘厳神秘なお伊勢の森を歩けただけでアタシは大の大満足でしたよ。


これを楽しみにしていた☆

さて本来の目的である本堂へのお参りを済ませたところで、お楽しみに取っておいた赤福でお茶&お菓子としゃれ込むことにします。


中から餡子と餅が(><)

何度も言うようでしつこいですが、きっと江戸時代の若者たちも、同じようにお団子食べながらこのお伊勢参りの話で盛り上がっていたんだろうななんて想像したら、よりいっそうカキ氷の冷た美味しさが染み渡りましたよ。
っていうかこの赤福のカキ氷めちゃくちゃウマかったです(><)この氷を崩した中には餡子とお餅が隠れていて、とにかくお得感満載の逸品でした(^^) この美味しい赤福のカキ氷、もしもいつかタイムマシンが発明されることがあるのなら、お伊勢参りに来ている若百姓たちにぜひとも食べさせてあげたいところですw

伊勢神宮
三重県伊勢市 伊勢自動車道・伊勢インターより10分

信貴山城 〜梟雄の城今昔〜

大和(奈良県)にあるこの信貴山城は、戦国一の梟雄と呼ばれる、正に下克上の権化と言ってもいい松永久秀の居城です。
この松永久秀がどのような人物か、知らない人に簡単に解説するには、織田信長が徳川家康に紹介した際のセリフを聞いてもらうのが一番でしょう。

「この老人はタダ者ではないぞ。主君を殺してその家を乗っ取り、東大寺の大仏を焼き討ちにし、将軍までも殺してしまったのだからな。普通の人間なら一つも出来ないであろうことを三つもやってのけたのだから、凄いものよのう。」

そんな信義のカケラも持ち合わせていない久秀のことを、信長はとても気に入っておりました。フツーの神経の持ち主ならば、こんな危なっかしい人物を側近として使うことなど絶対にしなそうなところですが、そこはやはり傾奇者の信長のことです。このような誰にもマネできないようなことをやってのける久秀のことを、ユニークな人物と評価していたのでしょう。


かなり険しい山城です

さてそんな裏切りの権化と言ってもいい久秀ですが、やはり信長のことを裏切ってしまいます。それも信長包囲網が完成し、いよいよ武田信玄が上洛を開始するという信長一世一代の大ピンチのときに裏切ったというのだから酷いものです。もっとも久秀にしてみれば、たんに勝ち馬に乗ろうとしての行為だったのではないかと思われますが、結果として信玄は上洛途中で帰らぬ人となり、畿内を本拠地とする久秀はたちまち孤立することとなってしまったのです。


あの山の上かよ!

そんな久秀のことを信長はどうしてやったのかというと、なんと!アッサリと許してしまったのです。信長というと自分に逆らう者と無能者は許さない、非情な冷酷漢というイメージなのではないかと思うのですが、実はそうでもないのですよ。


なんでこんなに(略

さて当の久秀はこのことに対し、いったいどのように思ったことか? 信長様はなんて慈悲深いお方なのか!と改めて忠誠を誓ったか、へっへっへ、なんて甘い奴めバーカと思ったか、それはその後の久秀の行動を見れば分かります。信玄が亡くなって4年後、今度は信長の首を狙って軍神謙信が上洛を果たそうとしたときに、またしても久秀は信長を裏切ってしまったのです。


てっぺんは気持ちいい☆

ほーらだから言わんこっちゃないと言いたいのは、きっとアタシだけではないでしょう。でもでもなんと!信長はそんな久秀のことをまたしても許そうとしたのです。
もっとも信長にもメンツがあるので、タダで許すとは言いません。久秀所有の絶品逸品な茶器・平蜘蛛の釜を渡せば許してやるからと久秀を説得したのですが、なぜか今度は久秀はその説得に応じることは無かったのです。


この場所で久秀は…

今度こそはと覚悟を決めた久秀は、この信貴山城本丸にてなんと!大量の火薬をもって平蜘蛛の釜もろとも爆死するという壮絶な最後を遂げてしまったのです。
いったい久秀は何を思ってそんな壮絶な死に方を選んだのか・・・この信貴山城本丸跡に立って想像してみても、ただただ不思議な感覚に捕らわれるだけでした。もしもいつかタイムマシンが発明されることがあるのなら、ドス黒裏切り人生を地で行きながらもなぜか信長に愛されたこの松永久秀という人物に一度会ってみたいものです。また、そこまでして信長が欲しがった平蜘蛛の釜も見てみたいものですね。


これがかつての梟雄の居城なのか

さてこの信貴山城のある信貴山なのですが、現在はなぜか真言宗のとある一派の総本山である超々立派なお寺が建っております。


豪華絢爛すぎるだろ

対抗勢力が立て篭っていたからという理由で奈良の大仏を焼き払うという天をも恐れぬ所業をし、その行動を見ても仏の道からは一番程遠いであろう久秀の居城跡が、こんなに立派な寺院となっているというのは、なんとも皮肉なものに思えました。

この朝護孫子寺は、見てのとおり本当に凄い広大贅沢な造りになっておりまして、平日の夕方だというのに沢山の参拝客が訪れておりました。戦国一の梟雄が、かつての自分の居城がこのような姿に変わり果てているのを見たら、いったいどんな顔をするでしょうね。

信貴山城
奈良県生駒郡平群町


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