福島正則 屋敷跡〜霊廟 〜どうしてこうなった〜 (2015.7.31)

先週、小山評定跡で関ヶ原の合戦前の家康に想いを馳せて来たところでありますが、そこでふと思い出したことがありました。
「そう言えばアタシが以前、長野県須坂市に住んでいた際に、近くで福島正則屋敷跡なんて看板があるのを見つけたことがあったな…」
でもその時は、それがあまりに近所であったことと、福島正則最後の地がこの信州高井だったからと言って、別にこの地で合戦やら何やらあった訳では無いということで何事も無くスルーしていたのです。
でも今になってみて、小山評定跡を訪れたことをきっかけに改めて福島正則の生涯を思い起こしてみると、信州高井にあった福島正則屋敷跡に行きたいという気持ちが無性に湧きあがって来ました。
山雪深い信濃の果てで福島正則は、いったいどんな気持ちで晩年を送ったんだろう?


荒れ放題の福島正則屋敷跡

福島正則は戦国武将としては結構メジャーな部類に入るのでは無いかと思います。三傑や武田上杉伊達毛利真田と言った大物には及ばずとも、ヘタすると北条氏康や長宗我部元親なんかよりも有名かも知れませんし、最上義光、宇喜多直家あたへんよりは間違いなく知名度が高いでしょう。
でもそんなメジャー戦国武将にも関わらず、その屋敷跡がこの寂れようというのが福島正則という猪武将の晩年のすべてを物語っていると言っても過言では無いのではないでしょうか?


正則の治めた高井の地

関ヶ原の合戦の直前において、福島正則は誰もが認める豊臣家に一番忠誠を誓っている大名と言っても過言ではありませんでした。そんな豊臣恩顧of豊臣恩顧大名の自分が家康に味方すると宣言することがどのような結果を生むことになるのか? 正則は考えなかったのでしょうか? それほどまでに石田三成が憎かった・・・きっと彼の頭にはそれしか無かったのでしょう。

福島正則は諸大名に対する影響力のみならず、関ヶ原の合戦本番においても多いに武功を立て、それまで尾張22万石の領地だったのが安芸49万石への大幅加増を受けます。にっくき三成も斬首され、このときが正則の絶頂期だったことでしょう。
やがて天下は豊臣から徳川へと移ります。江戸幕府が開設され、大勢が決してしまっても正則は豊臣家への忠誠心を捨てることは無く、そのことを隠すこともありませんでした。そんな正則は徳川幕府にとっては邪魔者以外の何物でも無かったことは言うまでもありません。福島正則は徳川政権下においては危険人物として飼殺され、大阪の陣への参陣も許されませんでした。家康の死後は言いがかりに等しいデッチ上げにより、信州高井4万5千石へ転封と事実上の改易処分を下されたのでありました。


福島正則荼毘の地

「どうしてこうなった…」

きっと正則は、山深い雪深い最果ての地でずっとこのように思っていたのでは無いかと思います。

「ただ三成を倒したかっただけなのに…アイツが悪かったはずなのに…」

でも結果として、自分が関ヶ原の合戦の際に家康に味方したことにより豊臣家が滅びてしまったということは、正則も認めざるを得なかったでしょう。


直情武将正則ここに眠る

正則がデッチあげの言いがかりにより安芸49万石から事実上の改易処分を命じられたとき、

「内府(家康)が在命ならば申したいこともあるが当代には何も言うことはない。」

と一言の弁明もしなかったそうです。
福島正則はハッキリ言ってバカだと思います。でも徳川の天下が定まった後に、それまでの豊臣家への忠誠をアッサリと翻した連中を尻目に豊臣家への忠誠を貫いたのは立派だと思います。豊臣滅亡に一役買った上に完全に豊臣家を見捨てたのでは、正則はバカを通り越したたんなる卑怯者に成り下がってしまいます。彼はそこまで自分を落とすことはしたくなかったのでしょう。
大阪の陣に際しては、正則も本当は大阪城に入りたかったのではないでしょうか? でもそうするには正則はあまりにも大身すぎて身動きが取れなかったであろうことは想像に難くありません。きっと正則は身一つで大阪城に入って武名を残して死んでいった真田幸村のことを羨ましく思っていたことでしょう。

おめおめと生き恥を晒し続けること…それが信州高井の地で正則ができるただ一つの罪滅ぼしだったのではないでしょうか?

福島正則屋敷跡、荼毘の地
長野県高井村 県道54号線沿い

岩松院・福島正則霊廟 
長野県小布施町


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