八甲田山 〜雪中行軍遭難の地をめぐって〜 (2023.9.16)

※2023年夏の旅より

間もなく日露戦争が始まろうとする1902年のこと、帝国陸軍において、ロシアとの戦争に備えて極寒の冬山を雪中行軍で踏破するという訓練が行われました。その舞台となったのがこの青森県の八甲田山です。


ロシアが攻めて来たらどうする!? (八甲田山雪中行軍遭難資料館)

その結果は広く知れ渡っているところかと思いますが、参加将兵210名中なんと!199名が死亡するという大惨事となってしまったのです・・・一体なぜそのような悲劇惨劇となったのか? その原因は多々岐々に渡っておりますが端的にまとめてしまえば、青森第五連隊の面々が司令部含め、冬の八甲田山をナメていたという一言に尽きるでしょう。
でもなるほど確かに、青森第五連隊の上層部連中がこの雪中行軍を軽く見ていたということは致し方ない部分もあるかと思います。だってこうして今回アタシが車で走って来た道というのがその遭難ルートなのですから・・・そりゃあ谷川岳とか槍ヶ岳などと言った超ガチ登山ルートを登るとなれば、誰だって本気モードで装備を整えて計画を立てることでしょう。


そんな装備で大丈夫か? (八甲田山雪中行軍遭難資料館)

かくいうアタシ自身、この八甲田山雪中行軍遭難事件のことは勿論知っておりましたが、てっきり八甲田山とは、「こんなすげえ山が真冬に簡単に超えられる訳ねーだろ!」って感じの凄い山だったんだろうなと想像しておりました。それがまさかその現場までこんなに簡単に来れるとは知らなかったからこそ、今までに訪れてみようと思っていなかった訳なのですから・・・おそらくは青森第五連隊の訓練参加者もそうだったのでは無いかと思います。当時の資料を調べてみると、訓練参加者の大半が、手ぬぐい一枚持って日帰り温泉にも行って来るかくらいのつもりだったというのですから・・・


そりゃこんな場所ならね (馬立場付近)

八甲田山はこの通り、夏場にはちょうど良さげなハイキングコースです。実際のところ、雪中行軍訓練本番5日前のプレテストでは天候に恵まれて参加者一同、まるで雪の中の遠足のようだったと触れ回っていたとのこと。それがまさか5日後の本番1月23日の夜には旭川にて観測史上最低気温マイナス41度!を記録し、青森においてもマイナス12度!風速14.3m!!の暴風雪が荒れ狂うことになるとは・・・
もっともこの天候悪化についても全くの想定外という訳ではなく、地元民が

「その日は山の神の日だから八甲田山に入ってはならねえ」

と警告をしておりました。しかも

「どうしても行くというなら案内人をつけるべ」

という村人のありがたい申し出を

「帝国軍人が一般人の協力など頼めるか!」

「お前ら案内料が欲しいからそんなこと言ってるんだろ?」

などと言ってけんもホロロに断るという死亡フラグ立てまくりムーブをカマしていたというのですからどうしようもありませんね・・・(もっともこの話は後から尾ヒレがついただけで、実際にはそんなやり取りは無かったとも言われておりますが)


いざ出発! (青森第五連隊本部前)

こうして雪中行軍に出発した青森第五連隊がどうなったのか?
思いもよらぬ暴風雪でにっちもさっちも行かなくなり、初日の夜に露営したのがこの「平沢第一露営地」です。


ここが白い地獄の始まり

もっとも露営といってもテントどころか天蓋すらも無い状態で畳6畳深さ2mほどの穴を掘り、寝るどころか座ることも出来ないままに1穴に20名ほどが詰め込まれたというのです・・・当初はその状態で朝まで待って天候が回復してから移動を開始する予定だったのですが、

「このままここに留まっても凍死してしまいます!」

という下々の訴えを隊長ら幹部は抑えきることができず、結局、午前2時に出発することになったのです。真っ暗闇の暴風雪でまともに前を見ることすら出来ず、しかも行こうも帰ろうも道がよく分らないという状態で・・・


こんなとこで1晩明かせと言われても・・・(八甲田山雪中行軍遭難資料館)

結論から言ってしまえば、ここで踏ん張らなかったことがその後の大惨劇に繋がる訳ですが、果たしてそのまま朝まで待ったところである程度の犠牲者は出ていたことでしょう。それに暴風&マイナス20度の状態で飲まず食わず眠らずに一晩中足踏みしてろと言われた隊員たちの気持ちになってみれば、最悪の選択をしてしまったことを誰が責めることができましょうか・・・


天は我々を見放した(鳴沢第二露営地)

こうして山岳遭難最悪パターンを地でなぞる行動を取ってしまった隊員たちはその後も、沢を下ったり一瞬の晴れ間を見て天候が回復したと勘違いすると言った雪山のタブーを犯しまくってしまいます。結果案の定、闇雲に白い地獄を彷徨いながら次々と落伍者を出して行き、二日目の夜をこの「鳴沢第二露営地」で明かすことになりました。しかもこの二日目の夜は昨日とは違い、スコップなどを全て失っていたために穴を掘ることすら出来ず、何の遮るものも無いままな文字通りの「露営」となったのです・・・
ですがこの夜も結局、一晩耐えることができず、午前3時に出発することとなりました。多くの凍死者の死体を残しながら・・・


この辺で死の徘徊していたのか・・・(馬立場付近)

三日目の第五連隊には彷徨のあげくの沢登りという、これまた遭難のテンプレを絵にかいたような大きな試練が待ち受けておりました。ここでまた多くの隊員を失った隊長の神成大尉の口からあの有名な

「天は我々を見放したらしい・・・」

の一言が漏れ、ここまで何とか頑張って着いてきていた隊員たちの気持ちの糸がプツリと切れてしまいます。この後のことは悲惨の一言。(それ以前も十分悲惨なのですが)とても詳細を書こうという気になりませんので、興味のある方は自分で調べてみてください・・・


あそこに誰かいるぞ!

最終的には流石にいくらなんでも帰りが遅すぎると連隊本部から救助隊を派遣したところ、吹雪の中で仮死状態で立ちすくしていた後藤伍長が発見されたのです。それは第五連隊出発後5日目、天に見放されてからなお二日も経過してからのことだったのです・・・
それから最終的には11名の隊員が救出され、八甲田山雪中行軍の悲劇の全貌が明らかになったのでありました。


後藤伍長に敬礼 (馬立場最高地点)

これまでの写真で紹介してきたとおり、八甲田山雪中行軍の軌跡は車で簡単に巡ることができます。また、青森第五連隊駐屯地跡には210名の英霊の墓標と八甲田山雪中行軍遭難資料館があり、悲劇の様相をより具体的に実感することができます。
今こうして八甲田山雪中行軍の現場を巡ったところで改めて思うところは、まさかどうしてこんなところでということに尽きます。白い地獄が始まった平沢第一露営地から天が彼らを見放した第二露営地まで、アタシは県道沿いに10分ほど歩いて移動して来ました。ですが史実の青森第5連隊は、そのわずか600mの直線距離をグルグル彷徨しながら15時間かけて、その間に70名の死者を出していたのですから・・・
資料館を出発した際には映画の中で歌われていた「雪の進軍」を口ずさんだりもしていましたが、やはり後藤伍長発見の地や第一露営地跡に着いた際には自然と頭が下がりましたし、黙とうした目をなかなか開けることはできませんでした。


210名の英霊ここに眠る (八甲田山雪中行軍遭難資料館の隣)


八甲田山 雪中行軍遭難事件の跡地
青森市から県道40号線を十和田方面へ



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