絵島囲い屋敷跡 〜悠久の沈黙〜 (2022.3.21)

今から1週間くらい前のこと、yahooニュースをダラ見していたら、松本近辺にちょっと気になる歴史スポットがあることが判明いたしました。
かつて江戸の町の賑わした大奥のゴシップスキャンダル・絵島生島事件の張本人主犯である絵島さんの流罪先がちょっと近所の高遠にあり、しかも絵島が幽閉されていたその場所に「囲み部屋」が再現されていることまでは知りませんでした。
アタシは特にこの絵島生島事件にも絵島にも思い入れがある訳ではありませんが、絵島が幽閉されていた座敷牢というものには興味があります。
ってことで今日は前から食べたかった高遠そばを食べに行きがてら、絵島の囲み屋敷跡があるという高遠町歴史博物館に出撃して来ました。


マジでそんなのが作られているとは・・・

ってことでまずはそこそこの歴史好きじゃなければ多分知らないであろう「絵島生島事件」の概要を思いっきり簡単に説明します。

徳川第六代将軍・徳川家宣が50歳で亡くなると、跡をついだのは家宣の唯一の男子・3歳の家継でした。家継は第七代将軍となったものの、このとおりまだ幼いなんてレベルでは無かったので、生母である"側室の"月光院が思いっきり幅を利かせることとなりました。そうなると面白くないのが家宣の"正妻"だった天英院です。天英院は跡継ぎこそ産めなかったものの徳川将軍家家中においては将軍御台所として絶大なる権威権力を保持しておりました。こうして徳川将軍家内及び大奥は天英院派と月光院派の真っ二つに別れ、両者は熾烈な抗争を繰り広げていたのです。
そんなある日、月光院の懐刀とも言える侍女の絵島が月光院の名代として上野寛永寺に前将軍家宣の墓参りに行った帰りにちょっとした事件が起こりました。絵島は墓参りの帰り道に芝居見物&宴会という寄り道をしてしまったのですが、これがあんまし楽しかったのかついついに長居してしまい、江戸城の門限までに帰って来ることが出来なかったのです。
そしてこのことが大問題となってしまい、絵島は信州高遠に流罪、このとき絵島の相伴にあずかっていた芝居役者の生島は絵島との密通を疑われて島流し、その他1500人!もが処分を受ける大事件に発展してしまったのでした。


絵島生島事件の真相は?

さてこの絵島事件、何やら色々ときなくさいものがありますよね。たかだかと言ってはなんですが、侍女の一人がちょっと遅刻したくらいで何を大げさなというのが一般的な感想なのではないでしょうか? これはやはり天英院派と月光院派の政争が具現化した結果のものなのではないかと考えるのが自然なのではないかと思います。門限破りの件はともかくとして、生島との密通の件については最後まで否定し続けていたとのことですし・・・


誰にも何も語らせまい

またこの絵島生島事件の結果、月光院の子・家継を擁して権力をにぎった当時の幕閣・間部詮房、新井白石が失脚するに至っております。さらに家継がわずか8歳で夭折した後に将軍職についたのは天英院と仲良しだった紀州藩主・徳川吉宗だったりと、この絵島生島事件の裏にはなかなかどうして色んな裏があるように思えてなりません。


これはひどい・・・

当の絵島はどうなったのかと言えば、その後なんと!高遠の囲み屋敷に27年間!!も幽閉されることとなったのです。
話し相手が侍女一人しかいない広さ8畳そこら1間の格子戸がハメ殺された狭い屋敷の中で、絵島はいったい何を思い考え過ごしていたのでしょう? 絵島はかつての大奥のことは決して語ることは無かったと言います。


絵島は何を思ったか?


高遠町歴史博物館
伊那市高遠町東高遠 457番地


なおこの囲み屋敷、最初はもっと遠い場所にあったのですが、それがあまりに不便だというので↑の高遠城の近くに移設されて来たとのことです。移設前の当初の囲み屋敷跡は3kmほど離れた↓の場所にあったそうです。


旧囲み屋敷跡地


お昼ごはんには高遠そばを食べました。


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