足利氏館跡〜新田義貞挙兵の地 〜宿命のライバル〜 (2022.9.9)

日本史上における宿命のライバルと言えば? その組み合わせは多多無数にあるところでありますが、スケールの大きさと因縁度で言えば足利尊氏と新田義貞の関係こそがもっとも宿命のライバルと呼ぶにふさわしいのではないかと思います。
足利氏と新田氏のライバル関係の始まりは鎌倉時代まで遡ります。坂東の地にその名を轟かせ、初代「武家の棟梁」と呼ぶべき大物源氏・源義家の四男、源義国の長男・義重と次男・義康がそれぞれ隣同士の新田荘、足利荘を領して新田氏、足利氏と名乗ったのが始まりです。(ちなみに源頼朝・義経は義家の長男の系統です。)


足利氏の館跡

足利義康が31才の若さで早世し、その跡をついだ幼い義兼を新田義重が庇護しておりますので、新田足利の関係は当初はライバル関係などではなく隣人一族同士協力しあっていたのではないかと思われます・・・が、いわゆる源平合戦での立ち回りが両者の立場を大きく変えることになったのです。


確かにこれは城ではなくて館

端的に言うと、足利義兼は真っ先に源頼朝のもとに駆け付けたのに対し、新田義重は最初に少し日和見的態度をとったあとで頼朝配下に加わったので、鎌倉幕府内での格付けが足利義兼>新田義重となってしまったのでした。その後も足利氏新田氏は隣同士に領地を構えながら、かたや足利氏は幕府の重鎮、一方の新田氏は幕府の一御家人としての立場に甘んじることになり、その序列は鎌倉幕府滅亡寸前の当主・足利高氏、新田義貞の時代まで下っても変わることは無かったのです。


現在の足利氏館はお寺になっています

※足利尊氏は鎌倉幕府滅亡までは高氏と名乗っておりました。もともと鎌倉幕府14代執権・北条高時の高の字をもらっていたのを後醍醐天皇の本名・尊治をもらって尊氏に改名しております。


綺麗な堀に泳いでいたデッカい草魚!

かたや鎌倉幕府第16代執権・守時の妹を妻として従五位下治部大輔の官位を持つ足利高氏に対し、北条氏とは微妙な関係のうえ無位無官の新田義貞。一説によればこの時代にはすでに新田氏は足利氏の家来的一族にカウントされていたとも言われております。


新田荘はこんな田舎

新田義貞は4つ年下の遠い親戚、足利高氏のことをいったいどのような目で見ていたことでしょう? 幕府重鎮として君臨するその堂々たる姿を同族の誇りとして崇め称えていたことでしょうか? いえいえきっとそんなことは無いと思います。同じ源氏の一族で、しかも元を辿れば新田の方が嫡流だったはずなのに・・・今に見ていろよという感情をみなぎらせたのではないでしょうか?


新田義貞はこの地で挙兵しました

義貞31歳頃のこと、大きなチャンスが訪れます。楠木正成が鎌倉幕府で反逆の狼煙を挙げたことを皮切りに、日本全国で反幕の火の手が上がり始めたのです。当初は楠木正成討伐軍に参加していた義貞ですが、鎌倉幕府とのちょっとしたいざこざをきっかけに、後醍醐天皇の倒幕運動というビッグウェーブに乗ることを決断したのです。


もしかしたらこの大銀杏は義貞の姿を見ていたかも?

さてこのとき義貞の頭に描いた敵とは、果たして鎌倉幕府だったのでしょうか? いえいえきっと義貞は鎌倉幕府の向こう側に、宿命のライバル一族の棟梁の顔を見据えていたのではないでしょうか?
鎌倉幕府を倒すことにより絶大なる功を挙げ・・・今度こそ新田は足利の上に立つ! 義貞は一族の悲願をその胸に新田荘を出撃して行ったのではないかと思えてなりません。


でも残念な新田義貞・・・

さてその後の義貞なのですが、残念ながら悲願の足利超えを果たすことはできなかったのは皆さんご存じのことかと思います。
もしかしたら新田義貞は、分不相応に足利超えなど目指さなければ、室町幕府において三管四職にも名を連ねる有力一門となっていたかもしれません。それでもやはり、義貞は足利の軍門に下っての栄華などは決して望まず、最後の最後まで足利尊氏の「宿命のライバル」として戦い続け散って行ったた生涯に満足しているように思えてなりません。


足利氏館跡
栃木県足利市家富町2220


義貞挙兵の地・生品神社

〒370-0314 群馬県太田市新田市野井町645

※2022年夏の旅にてのお話です。


◆◇◆ お便り感想♪
こちらの掲示板にてお待ちしております(^^) ◆◇◆


戻る

inserted by FC2 system