賀名生 〜諦め切れない重み〜 (2013.9.19)

後醍醐天皇の南朝と言えば吉野山というイメージなのではないかと思います。でも実のところ、吉野山よりもこの賀名生の方が南朝の本拠地との期間としては長かったりします。後醍醐亡き後、勢いを失った南朝は吉野山を維持することが出来ず、更に大和の奥深いこの賀名生の地に本拠を置くことになったのです。
以前に訪れた吉野山ですらかなり酷い場所だったのに、更に追い詰められた奥地だなんていったい賀名生とはどんなに凄い場所だったのだろう? それを確かめるべく現在の奈良県五條市の奥地に出撃してきました。


これは辺鄙だ

地図で見た限りでは、吉野山の方がよっぽど山奥なんじゃないかと思っていたのですが、やはりこの賀名生もなかなかどうして凄いところでした。アタシが北朝のエラい人だったら、賀名生の南朝は京都からの距離も遠いことだし、こんなところまで逃げて来たんならもう放っておいてもイイんじゃね?って思えるくらいです。って言うかココまで追い詰められたんならもうギブアップしちゃえよなと思ってしまいます。


これが皇居!?

これ・・・どっかの豪農の家じゃなくて皇居なんですよ?(^^; 皇居ってのは天皇の住む場所です。天皇ってのは日本で一番エラい現人神です。そんな凄い人がこんな家に住んじゃってイイのかよ(><)っていうかココまで追い詰められたんならギブアッ(略ですよ。


わびしいなあ(><)

でも逆に言えば、ココまでされても諦めないくらい南朝の執念とは凄かったということなのですよ。そんな怨念の塊のような存在となった南朝を滅ぼすのは容易ではないというのが逆に分かったような気もします。

また、この賀名生には、神皇正統記を書いた南朝の大忠臣・北畠親房の墓なんてものもあります。神皇正統記とは(筆者は読んだことはありませんが)簡単に言えば、北朝の天皇はニセモノであって南朝こそがホンモノであるということを正々堂々論じた書物です。そんなものを書いた北畠親房なのだからさぞかし後醍醐マンセーなのかと言えば実はそんなことはなく、むしろ破天荒な後醍醐のことは批判していて干されていたくらいなのです。


忠臣ここに眠る

だったら親房も南朝なんて裏切って北朝方に付けばイイじゃんと思いたいところですが、そこをあえてそうせずに神皇正統記なんてものを書いちゃうところが親房のエラいところでしょう。また、南朝とは、天皇家の正当性とは、それだけ重い重いものだということなのでしょう。

この賀名生の地には、南朝の執念、天皇家の正当性がいかに重さというものがすべて詰まっているように思えました。

賀名生の里歴史民族資料館
奈良県五條市


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