和気清麻呂像 〜天皇家を救った士〜 (2014/01/26)

今般、仕事の関係で気象庁に行くことになり、グーグルマップでその詳しい場所を調べてみると、何やら近くに面白いものがあるのを発見しました。
気象庁とは皇居のお堀のほとりに位置しているのですが、気象庁とお堀の丁度真ん中くらいに「和気清麻呂像」などという文字があったのです。
なるほど和気清麻呂か!言われてみれば皇居の傍に立っているべき銅像だよな★ アタシは思わず手をポンと打って納得してしまいました。


清麻呂って何者?


というわけで和気清麻呂という人物なのですが、みなさんご存じでしょうか? おそらくは高校の日本史の教科書には載っているかと思いますが、それほど有名な人物ではないのではないかと思われます。
でもでもでも、実はこの清麻呂さん、日本の歴史にものすごく大きな影響を与えた人物なのです。もしもこの和気清麻呂がいなかったら、天皇家は奈良時代において滅びていたのではないかというくらいの超大物だったりするのです。そんな天皇家の命の恩人とも言える清麻呂なのですから、皇居のお堀に佇んでいたとしても何の不思議もありません。
ではではこの和気清麻呂がいったいなにをしたのかと言えば・・・

今をさかのぼること1400年ほど昔のこと、奈良の大仏を作った聖武天皇は子宝に恵まれず、その皇位は娘の阿倍内親王・後の称徳天皇へと受け継がれることになりました。
称徳女帝はその高貴すぎる身分が災いして結婚することができませんでした。ということは、称徳女帝の次の天皇は称徳女帝の直系とはならず、当時何人かいた女帝の親戚である皇族から選ばれることになったのです。・・・が、その後継者候補にはロクな人物がおりません。そのうえ称徳女帝の母親・光明子は藤原氏の出身で、藤原氏が政治に皇位継承問題にとやたらとでしゃばってきてウザいです。そんな状況に嫌気がさした女帝は、皇族とも藤原氏とも縁も所縁もない僧侶の道鏡を重要して政治を取り仕切らせておりました。
そんなある日、九州の宇佐八幡宮から、道鏡を皇位につければ世の中は全てうまく行くという神託があったとの報告がもたらされました。そのことに多いに喜んだ称徳女帝は、その真偽を確かめるべく和気清麻呂を宇佐八幡宮につかわします。
これで自分が一番信用する道鏡に皇位を継承することが出来る・・・そんな報告を今か今かと待ち望んでいた称徳女帝に清麻呂はこのように復命したのです。

「天皇の位は天皇の血を引く者が嗣ぐべきもの! 無道の者(道鏡)など即刻追放すべし!」

この報告に怒り狂った称徳女帝は和気の清麻呂の名を別部穢麻呂(きたなまろ)と改名させたうえで流罪にしてしまったのです。
この清麻呂の持ち帰った神託により、天皇の位はいかなることがあろうとも天皇家の血を引く者のみが継承する物であるというルールが確定されたのでした。
この一連の事件は「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれております。

やがて称徳女帝が崩御すると道鏡も失脚し、皇位は称徳女帝が一番嫌った形で、藤原一門の話し合いによって選出された皇族の白壁王に継承されます。和気清麻呂も政界復帰を果たし、平安遷都に多いに貢献することとなりました。


清麻呂は今も・・・


もしも和気清麻呂が当初の神託通り、道鏡を皇位につかすべしという報告を持ち帰っていたら・・・道鏡天皇が誕生し、天皇家は万世一系ではなくなってしまっていた、いやそもそも天皇制そのものが崩壊していたかもしれません。
清麻呂は称徳女帝が自分にどのような報告を望んでいたかは重々承知しておりました。というかそもそもこの神託自体、称徳女帝の自作自演である可能性が極めて高かった訳ですし・・・称徳女帝の性格からして、もしも自分がこのような神託の確認結果を持ち帰ったら自分がどのような目に遭わされるかは容易に想像出来たことでしょう。にも関わらず、清麻呂は女帝に何らへつらうことをせず、正々堂々と天皇家のあるべき姿を説いたのです。
天皇家を救った英雄、和気清麻呂は、今もお堀の向こうからじっと皇居を見守っております。



和気清麻呂像
東京メトロ大手町駅より徒歩10分

皇居大手門すぐそば


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