斗南藩跡 〜会津藩の終わらない悲劇〜 (2017.9.7)

孝明天皇から一番の信頼を得ていた忠義の藩だったはずなのに・・・かつて薩摩は共に戦い、朝敵・長州を打ち破った盟友だったはずなのに・・・それが一夜にして立場が逆転して朝敵の烙印を押されてしまった会津藩。気がつけば幕府軍代表として薩長軍の猛撃を一手に引き受けることになり、領内を無残にも焦土とされてしまうという最大の不幸に見舞われた会津藩・・・それでもまだ、会津若松城落城後もその悲劇は終わってはおりませんでした。
藩主の松平容保は助命され、会津藩そのものは取り潰しにはならなかったものの、容保と生き残った会津藩士たちは陸奥3万石への移封を命じられたのです。


行きついた遠く最果ての地

移封先は現在の青森県下北半島・むつ市近辺。現在ですら辺境中の辺鄙の地である(むつ市の人ごめんなさい)この斗南に移住させられたおおよそ2万の会津の人々は更なる塗炭の苦しみを味わうことになったのです。
もといた会津若松の地は実高40万石にもなろう日本有数の穀倉地帯だったのが、この極寒の斗南の地で取れる石高はたったの3万石です。厳しい北風に吹かれ、火山灰で覆われた不毛の地に追いやられた旧会津藩士たちは苦しい生活を強いられ、病死餓死者が相次ぐこととなったのでありました。
その後、明治新政府の手で廃藩置県が実施されると、大多数の会津人は斗南の地を去り、全国へ散って行きました。中には森林深い斗南の地を必死の思いで開拓し、日本初の民間様式牧場を開設した人物もいたというのがせめてもの救いでしょうか。


それでも藩士みんなで必死に藩の再興を夢見たのでしょう

ってことで行って来た斗南の地なのですが・・・マジ遠杉! まさか青森市から車で2時間もかかるとは思いませんでしたよ(><) そのうえその道中はほとんどが森に覆われていて集落なんて殆どないし、車で走っているアタシですら、

トイレまだかー!コーヒー売ってねーぞー!

とか思いながら移動していたんですから、増してや徒歩移動、それも極寒の地への強制送還行進だった旧会津藩の人たちの悲哀は想像を絶するものだったことでしょう。


まじで寂しすぎる斗南の町

そのうえ実際に訪れた斗南の町のなんとも言えない最果て感・・・そりゃあ平成の今ですら会津人が長州人のことをうらんでいるって気持ちも分かろうってものです。

斗南藩政庁跡地・円通寺
青森県むつ市新町4-11



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