鞆の浦 〜龍馬も歩いた潮騒の街〜 (2016.9.26)

幕末の日本を縦横無人に駆け巡り、日本を夜明けに導いた英傑・坂本龍馬の有名なエピソードにこんなものがあります。
ある日、龍馬の友達・檜垣清治(ひがき せいじ)が、龍馬が腰に差している刀が短いことを指摘したところ、龍馬はこのように答えました。

「屋内や路地など狭い場所では短い刀の方が実戦に向いておるぜ。」

なるほどと思った清治も龍馬のマネをして短刀を差して龍馬に再会すると、今度は龍馬は拳銃を持っていたのです。

「銃の前には、刀なんて役に立たんぜよ。」

そこで清治も拳銃を手に入れると、次に龍馬に会ったとき、

「これからはコイツの時代じゃ。」

と万国公法の本をふところから出されたというw

さてこの話の真偽はともかく、龍馬が当時の海事国際法ともいえる万国公法を武器にしての大勝利を収めたことがあるというのは本当の話です。
その舞台がこの広島県福山市の鞆の浦という海岸の村なのです。


ただ静かな波の音だけが漂う海岸の町

事件はこの鞆の浦の近くの海で起こりました。紀州藩の船・明光丸と龍馬率いる海援隊の船・いろは丸が衝突し、いろは丸が沈んでしまったのです。


日本初の海難審判事件

幸いにも、いろは丸の船員は明光丸に乗り移り全員無事だったのですが、いろは丸の積荷は全て海の底に沈んでしまいました。そこで龍馬は明光丸に対し、
「このオトシマエはどうつけてくれるんじゃ!」
と海難審判を請求したのです。


正しいのはどっち?

紀州藩と亀山社中の談判は、明光丸がとりあえず寄航した鞆の浦の福善寺で行われることになりました。
さて海難審判と言っても、それは現代と違って江戸時代のことです。いろは丸は土佐藩の郷士身分の龍馬の船であるのに対し、明光丸は天下の御三家・紀州藩の船です。当然、紀州藩は龍馬のことをナメてかかったことでしょう。でもそこは航海術のエキスパートな龍馬のことです。紀州藩相手の交渉に一歩の引けも取らないどころか、万国公法を引き合いに出して紀州藩のことを散々に非難したのです。


龍馬が4日間隠れ住んだ商家

結局交渉は4日間に及んでもまとまらず、国際港である長崎で決着をつけることになりました。ちなみに龍馬はその間、紀州藩士からの襲撃を恐れ、枡屋右衛門という商家の隠し部屋に身を隠しておりました。

その後改めて長崎で行われた交渉では、龍馬の言い分が完全に認められることになり、紀州藩は土佐藩に対して莫大な賠償金を支払うことになったのです。万国公法を武器にした龍馬は見事な大勝利をあげたのでありました。


龍馬大活躍の地・鞆の浦

そんな龍馬ゆかりの地・鞆の浦、龍馬ファンには是非とも訪れて欲しいです。


見所いっぱいの展示館

まずは2枚目の写真を撮った場所、いろは丸記念館が面白かったです。


いろは丸の模型


必見!隠れ家の龍馬実物大人形w

ほかにもいろは丸から引き上げられた発掘品なども飾ってあり、博物館があまり好きではないアタシでもとても楽しむことが出来ました。


これは絶対見るべき見るべき!

また、4枚目の写真の場所・龍馬の滞在した商家には絶対に行くべきです。


貴重な部屋の完全公開(><)

なんと!龍馬が4日間隠れ住んでいた部屋の中に入ることができるのです(><)
これは物凄い感動でした。今から150年前に龍馬が座っていたであろう場所に自分も座ってみることができるのです! 龍馬が見たのと同じ部屋の壁を見つめることができるのです! 実際に歴史的事件があった場所に行き、当時の人物たちの想いを想像・体感してみる・・・正にアタシが史跡探訪に求めているものがそこにはありました。


そうでなくてもイイところ

しかもこの鞆の浦、そもそもそんな歴史的事件うんぬん関係なしに、ものすごくふいんきのいい港町です。龍馬の史跡とか鞆幕府とか一切抜きでも十分に静かな港町風情を堪能できます。


龍馬も歩いたであろう小道

そのうえこの同じ道を龍馬も歩いていたんだななんてことを想像すれば、静かな港町の情緒は何倍にも膨れ上がるというものですよ。
龍馬ファンでなくてもそうでなくても、ただ波の音漂う港町で安らぎのひと時を楽しむことができます。


鞆の浦
広島県福山市

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