備中高松城 〜墓標、時を越えて〜 (2012.7.17)

かつて羽柴秀吉の手によって、水攻めという珍しくも壮大な作戦によって落城させらたことで有名な備中(岡山県西南部)の城です。
この備中高松城、当初秀吉はフツーに正攻法で攻めていたのですが、城を守る猛将・清水宗治の奮戦により一向に落ちる気配がありません。そこで秀吉は沼に囲まれ近くに川が流れているというその地形を利用して、城の周りを堤防で囲って川の水を流し込んで城を沈めてやろうという大胆不敵な作戦を取ることとしたのです。
近所の農民を雇って工事を始めると堤防は2週間たらずで完成し、川の堰を落してみると見事、城のほとんどが水没することとなってしまったのです。


ココも水の底だったのか・・・

そんな備中高松城に実際に訪れてまず思ったことは、このへん一帯が水没したなんてありえねーだろ!ってことでしたね。まずは城に水を引き込んだという足守川ですが、それほど城から近いというわけでもありません。それに実際にこのへんを歩いてみても、特に低湿地な印象は受けず、ごくごく普通の田園平野地帯って感じでした。にも関わらず、成功するかどうかも分らない水攻め作戦のために周囲4キロもの堤防を作るという大工事を行うことを決断した秀吉の計算力と胆力は、やなり並大抵のものではありませんよ。


言うほど湿地かな?


こんな場所もあるけどさ

さて見事水攻め作戦を成功させ、備中高松城を落城あと一歩まで追い込んだ秀吉のもとに、トンでもない知らせが舞い込んできました。それは本能寺にて信長死すの悲報だったのです。
もしこのことが皆にバレたら大変なことになります。味方の軍には動揺が走り、備中高松城の救援へとこちらに向かっている毛利軍は嵩にかかって攻めよせてくることでしょう。でもそんなピンチの中でも秀吉は物おじすることはありませんでした。なんと大胆にも、
「間もなく信長様の援軍が押し寄せてくるから、そのとき降服してももう手遅れだぞ」
などというハッタリをカマし、みごと備中高松城を開城させることに成功したのです。
秀吉の進軍を2度にわたって撃退し、城を水没させられながらも闘志を失うことの無かった猛将・清水宗治は備中高松城を覆い囲む水の上に船を浮かべ、敵味方みなが見守る中で見事切腹して果てたのでありました。


勇将ココに果てる・・・

この清水宗治切腹の地には奇麗な花咲き乱れる石碑が建っております。
石碑の前に立って手を合わせて目を閉じると、400年の時を経てこの場所に立っている自分という存在が、なんとも不思議なものに感じられました。回りには民家が並び立ち、田園風景がひろがり、目の前には市民の憩い公園があるこの場所が、かつての大激戦地にして悲劇の場所であり、しかも水没までさせられていたというのですから・・・無念の涙を飲んだ猛将がまさに切腹して果てた同じ場所にこうして立っているというこの感覚は、なんともいいようがありませんでした。

なお、清水宗治が切腹し、毛利軍との和睦を果たした秀吉軍が引き揚げた後、信長死すの報が毛利軍に届いたのはそれから2時間後のことだったと言います。天国の清水宗治がそれを知ったら、いったいどんな想いを抱いたことでしょうね?


備中高松城
岡山自動車道・岡山総社インターより15分


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