摺上原古戦場跡 〜やっぱり凄いぜ伊達男〜 (2023.4.29)

今回は戦国一の伊達男・伊達政宗が奥羽の覇者としての地位を確立させた台地・摺上原(すりあげはら)に出撃して来ました。


会津磐梯山のふもとの原っぱ

会津の猪苗代湖と磐梯山の間で起こったこの合戦の概要を超簡単に説明すると、米沢を中心に勢力を伸ばし南下した政宗率いる23000の軍勢が、会津の大名・蘆名氏&それを支援する常陸の佐竹氏の連合軍18000と激突したという戦いです。多勢有利な状況のはずの伊達軍でしたが折からの強風に煽られて目も開けられない状態だったために合戦前半は大苦戦を強いられます。しかし蘆名軍は寄せ集め軍であるがゆえに統制が今一つ取れていなかったうえに合戦最中に風向きが変わったことにより足並みが乱れます。伊達軍はその隙を見逃さず一気に攻勢をしかけ、ついに大逆転勝利を収めたのでした。この摺上原の戦いの結果、大名としての蘆名家は滅亡し、会津若松の地は政宗の版図に組み入れられることになったのです。


なだらかな坂道を登って

・・・ってこうして書くとなんだか戦国時代のよくある出来事のように見えてしまいますが、そんなことはありません。実のところただ一度の"野戦"の結果で大大名家が滅亡したなんて例はなかなかのレアケースなのですよ。
たとえば有名な桶狭間の戦いで当主・義元を打ち取られた今川家も長篠の戦いで騎馬隊を壊滅させられた武田家も、その後何年にもわたって大名家として君臨し続けておりました。その他に万単位の軍勢が戦って片方が致命傷を負った野戦っていうと姉川の戦い、耳川の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦いと言ったところが有名かと思いますが、いずれも負けた方は滅亡までには至っていないのです。(仙石秀久は滅亡したみたいなものですが)
野戦一戦で滅亡した大名というとアタシの中では蘆名氏の他には

河越の戦いにおける扇谷上杉朝定
厳島の戦いにおける陶晴賢
山崎の戦いにおける明智光秀
賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家

くらいしか思いつきません。そう考えると、一会戦で一つの大名家を滅亡させたことがある伊達政宗ってやっぱりタダ者じゃあないなと思いますよ。
さて会津地方を版図に組み入れてついに100万石の大大名にまでのし上がり、いよいよ奥羽の覇者たらんと目を輝かせた独眼竜でしたが、その100万石の夢はすぐさま淡く儚く消え去ってしまったのです・・・



なかなか疲れるぞ

摺上原の戦いが起こったのは1589年。これは豊臣秀吉が関白に就任し、日本全国に「惣無事令」を発した後のことだったのです。世間一般的には豊臣秀吉は各地の大名を征伐し、最後に小田原征伐にて北条氏政を倒したところで天下統一が為ったと思われているところかと思いますが実際のところは少し違います。正確には豊臣秀吉が1585年に関白に就任した時点で役職的には日本で一番エラい人ということになりますので日本全国の大名は秀吉の命令に従う義務があるというタテマエが生まれていたのです。
1587年、秀吉は正式に東北地方の大名に対して「惣無事令」を発します。これは要するに「私戦はやめて平和に努めよ」という命令なので、蘆名氏に対して私闘をしかけて領土を奪った政宗は「惣無事令違反」として討伐の対象となりえたのです。ならなぜ政宗が惣無事令を無視したのかと言えばなんのことはありません。秀吉のことをナメていたというだけの話です。命令違反したところで秀吉ごときに何することもできないだろとタカをくくっていたのです。この辺の勘違い事情は島津や北条も同じですね。
という訳で政宗は、秀吉がいよいよ天下統一の総仕上げとして大軍を率いて小田原城まで押し寄せてきた1590年になってようやく「摺上原の戦いの件って実はヤバいことしたんじゃね?」という焦りを覚えます。思案のあげく政宗は小田原に対陣中の秀吉のもとに白装束で赴いて土下座するというウルトラCをカマすことにしたのです。結果、政宗は討伐されることまではまぬがれたものの、惣無事令後に獲得した会津の領地は没収されることになったのでありました。


この辺で戦いがあったらしい

ってことで訪れてみた摺上原なんですが見ての通り、雄大な会津磐梯山を見上げるゆるやかな坂道が続いていて、ほんとに摺り上がって行くような原っぱが続いておりました。当時の記録を読んで見ると、最初は伊達勢に対して向かい風だったのが途中で風向きが変わって戦況が一転して伊達家の勝利に終わったということですが、なるほど確かに絶対風向き超重要ですね。
1枚目の写真は摺上原のふもと1kmくらいの場所で、そこからゆるやかな坂道を登って行ったらなかなかどうして地味に疲れが溜まって来ましたからね(><)
実際の陣立てがどうだったのかは分かりませんが、これ絶対坂道の方にいた方が圧倒的有利で、尚且つそこに風向きまで味方したら絶対必勝態勢ですよ。言い伝えによれば壇ノ浦の義経がごとく、伊達軍は風向きが変わることが分かっていてあえて最初は不利となる風下に布陣したとのことです。一見するとなるほどな策略かと思いますが、でもこれ実際にやれって言われたら相当な覚悟がいると思います。だって風向きが変わる前に一気に押しつぶされてしまう可能性だって全然ありえるわけですからね。序盤の不利な状況を耐えきって見事に大勝利をもぎとった伊達政宗はやっぱり一大英傑だなと改めて思いました。


戦場からけっこう離れたところにある石碑

そんでもってこの摺上原古戦場跡なんですが、実際に戦闘があったと言われる場所と5枚目の写真の石碑の場所は1km弱離れておりまして、徒歩移動した筆者はエラく道に迷ってしまい大変な思いをしたのですよ(^^;
そこでふと思ったのですが、この摺上原の戦いみたいな野戦って、よくもまあ両軍ちょうどよくなタイミングで同じ場所に布陣して戦いが始められるものだなと。最初からお互いに使者を送りあって「何時何分どの場所で戦いましょう!」みたいに決めとかないと、両者がニアミスしてしまい、勝ち負け以前の話で戦に持ち込むこと自体が難しそうだなあと。そう考えると改めて、

@想定している戦場で、
A風向きが変わる時間を考慮して戦に持ち込んで、
Bただの一戦で大大名家を滅亡に追い込む

ということが出来た時点で伊達政宗はすごいヤツだったんだなと思わされた平原古戦場さんぽでした。


やっぱりすごいぜ伊達男☆


摺上原古戦場跡
〒969-3286 福島県耶麻郡猪苗代町磐根磐根


※この後は喜多方の甘味処・うららに行きました☆



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