信貴山城 〜梟雄の城今昔〜 (2013年9月18日)

大和(奈良県)にあるこの信貴山城は、戦国一の梟雄と呼ばれる、正に下克上の権化と言ってもいい松永久秀の居城です。
この松永久秀がどのような人物か、知らない人に簡単に解説するには、織田信長が徳川家康に紹介した際のセリフを聞いてもらうのが一番でしょう。

「この老人はタダ者ではないぞ。主君を殺してその家を乗っ取り、東大寺の大仏を焼き討ちにし、将軍までも殺してしまったのだからな。普通の人間なら一つも出来ないであろうことを三つもやってのけたのだから、凄いものよのう。」

そんな信義のカケラも持ち合わせていない久秀のことを、信長はとても気に入っておりました。フツーの神経の持ち主ならば、こんな危なっかしい人物を側近として使うことなど絶対にしなそうなところですが、そこはやはり傾奇者の信長のことです。このような誰にもマネできないようなことをやってのける久秀のことを、ユニークな人物と評価していたのでしょう。


かなり険しい山城です

さてそんな裏切りの権化と言ってもいい久秀ですが、やはり信長のことを裏切ってしまいます。それも信長包囲網が完成し、いよいよ武田信玄が上洛を開始するという信長一世一代の大ピンチのときに裏切ったというのだから酷いものです。もっとも久秀にしてみれば、たんに勝ち馬に乗ろうとしての行為だったのではないかと思われますが、結果として信玄は上洛途中で帰らぬ人となり、畿内を本拠地とする久秀はたちまち孤立することとなってしまったのです。


あの山の上かよ!

そんな久秀のことを信長はどうしてやったのかというと、なんと!アッサリと許してしまったのです。信長というと自分に逆らう者と無能者は許さない、非情な冷酷漢というイメージなのではないかと思うのですが、実はそうでもないのですよ。


なんでこんなに(略

さて当の久秀はこのことに対し、いったいどのように思ったことか? 信長様はなんて慈悲深いお方なのか!と改めて忠誠を誓ったか、へっへっへ、なんて甘い奴めバーカと思ったか、それはその後の久秀の行動を見れば分かります。信玄が亡くなって4年後、今度は信長の首を狙って軍神謙信が上洛を果たそうとしたときに、またしても久秀は信長を裏切ってしまったのです。


てっぺんは気持ちいい☆

ほーらだから言わんこっちゃないと言いたいのは、きっとアタシだけではないでしょう。でもでもなんと!信長はそんな久秀のことをまたしても許そうとしたのです。
もっとも信長にもメンツがあるので、タダで許すとは言いません。久秀所有の絶品逸品な茶器・平蜘蛛の釜を渡せば許してやるからと久秀を説得したのですが、なぜか今度は久秀はその説得に応じることは無かったのです。


この場所で久秀は…

今度こそはと覚悟を決めた久秀は、この信貴山城本丸にてなんと!大量の火薬をもって平蜘蛛の釜もろとも爆死するという壮絶な最後を遂げてしまったのです。
いったい久秀は何を思ってそんな壮絶な死に方を選んだのか・・・この信貴山城本丸跡に立って想像してみても、ただただ不思議な感覚に捕らわれるだけでした。もしもいつかタイムマシンが発明されることがあるのなら、ドス黒裏切り人生を地で行きながらもなぜか信長に愛されたこの松永久秀という人物に一度会ってみたいものです。また、そこまでして信長が欲しがった平蜘蛛の釜も見てみたいものですね。


これがかつての梟雄の居城なのか

さてこの信貴山城のある信貴山なのですが、現在はなぜか真言宗のとある一派の総本山である超々立派なお寺が建っております。


豪華絢爛すぎるだろ

対抗勢力が立て篭っていたからという理由で奈良の大仏を焼き払うという天をも恐れぬ所業をし、その行動を見ても仏の道からは一番程遠いであろう久秀の居城跡が、こんなに立派な寺院となっているというのは、なんとも皮肉なものに思えました。

この朝護孫子寺は、見てのとおり本当に凄い広大贅沢な造りになっておりまして、平日の夕方だというのに沢山の参拝客が訪れておりました。戦国一の梟雄が、かつての自分の居城がこのような姿に変わり果てているのを見たら、いったいどんな顔をするでしょうね。

信貴山城
奈良県生駒郡平群町


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