魁塚 〜赤報隊へのレクイエム〜 (2014.11.8)

アタシには高杉晋作や坂本龍馬など、大好きな維新志士は沢山おりますが、明治維新後に立ち上がった新政府のことは今ひとつ好きではありません。理由はいろいろありますが、その大きなものの一つとして、赤報隊の悲劇というものがあります。

王政復古の大号令という大ワザをやってのけ、鳥羽伏見の戦いに勝利するという幸先よいスタートを切った新政府。でも実のところは大久保利通や岩倉具視の強引なやり方に不満を持つ者も多く、いつ佐幕派が巻き返して来てもおかしくはなかったのです。
そんな状況下、相楽総三という志士が、庶民を味方につけるために年貢を半減することにしてみてはどうかと提案します。それを聞いた西郷隆盛ら新政府の幹部は、それで味方が増えて幕府に勝つことが出来るならと建白を受け入れて、相楽に対して早速そのことを庶民に触れ回るよう命令しました。
自分の意見が受け入れられたことに満足した相楽総三は赤報隊を結成し、庶民に新政府による年貢半減をアピールしながら江戸へと進撃して行ったのです。
この年貢半減による新政府の宣伝効果は絶大で、京都から江戸へ向かう街道沿いの村々において、赤報隊は拍手喝采で受け入れられたのでした。

…がしかし、よくよく考えてみると、これから富国強兵して欧米列強に立ち向かわなければならない新政府には、やはり年貢を半減する余裕なんてこれっぽっちもありません。とは言ったものの、これだけ大好評の年貢半減令を今更反故にしてしまうわけにもいきません。そんなことをしてしまったら、新政府の信用はガタ落ちです。
それならいったいどうすれば…そうだ!赤報隊はニセ官軍だったことにして、相楽総三はウソっぱちを触れ回った賊として処刑してやればイイんだ! などというトンでもない結論に至ってしまったのです。


諏訪大社にて…

年貢半減令を触れ回っていた赤報隊がニセ官軍として捕縛を受けたのは、長野県諏訪の地においてのことでした。相楽総三ら8人の幹部は冷たい雨が降りしきる中、諏訪大社の杉の木に縛られて一昼夜晒し者にされることなってしまったのです。


総三らが括られた杉の木はいずこ?

無実の罪どころか完全確信犯の生贄にされようとしている赤報隊士たちは口々に自分たちの無実を訴えるか、あるいは汚いやり口で自分たちを陥れた新政府の幹部に対する罵声を口走っていたようです。それも当然のことでしょう。でもその中でただ一人、相楽総三だけは静かに目を閉じて佇んでいたそうです。


無念非業の護送街道

翌日、赤報隊士は宿場外れに移されて処刑されることになりました。
無実の罪でこの上なく無慈悲な運命を享受せざるを得なかった隊士たちは、普段は大社のお参りで賑わうこの参道を、いったいどのような思いで歩いたことでしょう?


相楽総三ここに散る

隊士達は次々と首を刎ねられ、最後に相楽総三が処刑されたそうです。
一言の弁解もすることも無く静かに散って行った相楽総三…でもそもそも彼自身、幕末という戦乱を掻い潜って生き延びてきた戦士です。ときには謀略に手を染めて人を騙し、汚い手段で人を殺めて来たという過去を持っています。そんな自らの行いを振り返り、いよいよ自分の番かと覚悟を決めていたのではないのでしょうか? もしかしたら総三自身、これでやっとこの殺し合い騙しあいの非情な現世から逃れられると笑っていたのかもしれません…


赤報隊よやすらかに…

ミエミエの嘘で塗り固められた赤報隊の悲劇は多くの人の知るところでした。諏訪の人達は非業の死を遂げた赤報隊士を哀れみ、その処刑場を魁塚と呼んで隊士達の霊を慰め続けてきたのです。
相楽総三の孫、木村亀太郎は祖父・相楽総三の冤罪を晴らすべく運動を重ね、昭和3年…相楽総三ら赤報隊士たちは正式に維新志士と認められ、相楽総三には正五位が追贈されるに至りました。

魁塚
長野県下諏訪町 下諏訪駅から徒歩10分


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