柿崎城 〜呉下の阿景にあらず〜 (2024.2.17)

今日は上杉謙信配下の戦国武将・柿崎景家の居した柿崎城へ行ってきました。
柿崎城は越後に通じる国道8号線・北陸自動車道の柿崎ICの真横という要衝に位置しております。


国道を走っていると見える柿崎城の看板

そんな重要ポイントを任される柿崎景家は越後軍団随一の猛将として名が知られ、古い信長の野望シリーズにおいては武勇・統率は最上位クラスなのに政治・知略はダメダメという脳筋武将の代表例という感じでした。


城山の上から見えるのは越後の名峰・米山

ですが最近の研究においては越後領内の内政、関東における外交でも十分な能力を発揮した知勇兼備の将だったという評価に変わって来ております。
具体例として、歴代の信長の野望シリーズにおける柿崎景家のパラメータの変遷を見てみると、


1999年発売 信長の野望烈風伝
智謀10 政治19 戦闘93 采配64

2009年発売 信長の野望天道
知略12 政治64 武勇96 統率90

2013年発売 信長の野望 創造
知略77 政治63 武勇93 統率85

2022年発売 信長の野望 新生
知略81 政治64 武勇95 統率86


と言った感じですね。
また、かつては景家の死因については、その脳筋具合が災いし、ついうっかり現在絶賛敵対中の織田信長に名馬を売ってしまったことに激怒した謙信より死罪とされたという話がまかり通っておりました。ですがどうやらそれは俗説らしく、ごく普通に謙信に先立つこと4年前に病死したというのが最近の通説となりつつあります。


城山の標高は25m

かつての研究にしろ俗説にしろ信頼できそうな資料にしろ、柿崎景家が比類なき猛将であったという部分は一致共通しているので、景家が上杉謙信率いる越後軍団の中核を為す重鎮であったことは間違いないでしょう。


本丸跡には展望台が

それにしても昨今は、新資料が発見されたり何だりで、それまで一般的に抱かれていた人物像、歴史認識が大きく覆される事例が次から次へと出てきているところであります。とは言ったものの、実はそれって結構大昔から言われていることだったって例も結構あるんですよね。
一例を挙げてみると、長篠の戦いにおける織田軍団の鉄砲三段撃ちは無かったって話があげられます。そんなの少なくてもアタシが中学生の頃から結構言われていた話だってのに、令和5年現在になっても今だにテレビやラジオでこれが最新研究の新発見的に語られるのを聞きますからね。


本丸から望む日本海

かくいうアタシに柿崎景家が脳筋武将というイメージが植え付けられたのは、

1990年発売の信長の野望「武将風雲録」での政治31戦闘85

というパラメータを見てのことです。

※本作においては戦闘90以上の武将は上杉謙信、真田幸村、武田信玄、竹中半兵衛、真田正幸、山本勘助の6名しかおらず、85は相当高い数値である。島津家久、山県昌景ですら87で、本田忠勝に至っても85。

でも実は1990年当時には、ちょっとした上杉マニアの間では

「景家が信長に馬売って死刑になったなんて俗説を今だ信じてるヤツがいるのか」

なんてのが常識認識だったのかもしれません。
これからもっともっと色んな資料が発見されて歴史研究が進めば、まだまだ従来のイメージが180度くつがえされる戦国武将が出て来るのかもしれません。柿崎景家の信長の野望におけるパラメータ変遷を見るに、そういう話が広く一般認識として浸透するまでには更なる長い年月がかかるもののようです。


これからどうなる?柿崎城


柿崎城
〒949-3216 新潟県上越市柿崎区柿崎405の7 北陸自動車道柿崎IC

このあとは柿崎の海岸をさんぽして来ました。



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