石原莞爾墓所 〜満蒙の地に懸けた夢〜 (2022.7.6)

先日、秋田山形県境・鳥海山のふもとにある丸池様に出撃した際、国道7号線沿いに現れた看板を見てめちゃビックリしてしまいました。


石原莞爾将軍墓所 200m先左折

・・・って去年ここ通ったときにはこんなの無かったぞ! ってかなんでこんな場所に石原莞爾の墓が!? こんなすごいものを見つけたからには寄って行かない訳には行きません。急遽車をUターンさせて大日本帝国陸軍きっての異端天才・石原莞爾の墓標を訪れてみることにしました。


調べてみたら石原莞爾は山形県出身でした

ってことでこの石原莞爾という人物、一般的知名度は東条英機や山本五十六などには大幅に劣っているのではないかと思います。ですが実のところこの石原莞爾、日中戦争を語るに当たっては切っても切り離すこともできないキーマンで、ヘタすれば東条英機や山本五十六なんかよりも大戦全体に対して与えた影響は大きいのではないかと思います。何しろ「満州事変」を画策した首謀者であり、もし石原莞爾がいなければ、日本が国際連盟を脱退する原因となった「満州国」が建国されていなかったのかもしれないのですから・・・
単純にこの事実だけを見ると石原莞爾とは、中国に侵略の魔の手を伸ばした帝国主義者のように見えるかもしれませんが、実際は逆です。むしろ石原は中国との戦線は拡大するなと主張していたのです。石原の本懐とは満州国を中心に中国、朝鮮などなど「東洋人」が連携し、ソ連やアメリカ、イギリスと言った「西洋人」に対抗することだったのでした。
満州国の建国に関しては、石原の天才的軍略で満州事変を起こし軍事的に制圧したことによるものだったのですが、果たしてこれが単純に「侵略」の一言で片づけてよいのかは難しいところなのです。ソ連と中国・朝鮮の間に位置する満州の地が当時も歴史的にも「中国」の領土だったのかと言えば微妙なものでしたし、日本にしても日清・日露戦争を経て満州に各種権益を得ていたのですから。
満州について語り出すとキリがありませんし、アタシごとき素人が正確な見解を下せるはずもありませんのでこの辺で止めておきますが、要するに石原は単純な帝国主義的観点で満州を侵略占領した訳ではないということです。


この墓所ができたのも令和3年5月のことでした

でも残念ながら・・・満州を中心に五族(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)が協和し欧米列強に対抗する・・・この石原の理想が叶うことはありませんでした・・・石原の思想を正しく理解していなかった連中が、満州を電撃占領した石原を見習えとばかりに、どんどん中国に侵略の魔手を伸ばして行ったのです。その結果が中国との泥沼の戦いに引きずり込まれ、アメリカとの決定的対立をもたらし、悲惨な敗戦への道を辿って行ったのは周知のとおりです。

さてその後の石原は参謀本部中枢の主戦派である東条英機などと対立し、日米開戦前の昭和16年3月に陸軍を去ることとなりました。12月8日に真珠湾にて南雲機動部隊が華々しくアメリカ軍を打ち破ったときにも石原は冷静に、その後の日本の敗戦を予言していたのです。
やがて石原の予想通り日本がアメリカに敗れ、進駐軍が石原を「戦犯」とするための取り調べを行うと、

「ペリーをあの世から連れてきて裁けばよい。もともと日本は鎖国していたのに帝国主義の道に引き込んだのはアメリカだろう。」

と言い放ったのでした。


五族協和の大志を胸に抱き

アタシは石原莞爾の信者ではありませんし、その伝聞を100%鵜呑みにしている訳でもありません。ですが石原が戦略家として天才的な人物であったろうことは間違いないと思いますし、もし石原の当初の構想通り満州を死守して中国の戦線を広げなければ・・・果たして大戦の行方がどうなっていたのか?そのことは今でも気になっているところであります。


石原莞爾墓所
山形県飽海郡飽海郡遊佐町遊佐町





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