犬伏・新町薬師堂 〜真田親子の生きる道〜 (2016.2.27)

時は戦国の新たな火種がくすぶり始めた1600年7月のこと・・・昌幸、信幸、信繁(幸村)の真田親子3人は、徳川家康に従って会津の上杉討伐に向かわんと下野国(栃木県)まで出陣しておりました。


このまますんなり行くものか?

さてこの家康の会津討伐・・・表向きは太閤様の遺命に逆らう上杉景勝を征伐するための出陣とのことなれど、その裏には何やらキナ臭いものが感じられます。今回のこの出陣、まさか額面通りに受け取れまい・・・かつて戦国一の謀将と恐れられ、表裏比興と謳われた真田昌幸が情勢を窺っていると、ほらやはり案の定、大坂の石田三成からの書状が届いたのでありました。

石田三成:
「上杉景勝殿と徳川家康、どう考えても謀反人は景勝殿ではなくて家康の方ではないか。そこで我ら毛利輝元殿を総大将に、宇喜多秀家殿、その他豊臣恩顧の大名をもって徳川征伐の兵を挙げる。亡き太閤様の御恩を忘れ天下人のごとくふるまう謀反人・徳川家康を討つためにどうか真田殿も立ち上がってくだされ!」

石田三成の言うことは至極もっとものことであれ、秀吉の跡を継いだ秀頼はまだ6才。それに実力人望どちらを取っても徳川家康には天下人たる資格が十分あるのは誰の目にも明らかです。果てさてこれからどうすることやら・・・昌幸、信幸、信繁の3人は下野国犬伏の新町薬師堂で今後のことを話し合うことにしたのです。


三成か家康か!?

信幸:
「太閤様亡き後、この日本を一つにまとめられるのは徳川家康様に他なりません! 戦国乱世を終わらせて、平和な世の中を築くことが出来るのは家康様のみ! だから私はこのまま家康様に従いたく存じます!」

昌幸:
「ふむう、おぬしの言うことも良く分かる・・・だがワシは・・・真田の血が騒いで仕方がないのじゃ。徳川こそは我が真田の地を削り掠めた宿敵ぞ! その徳川に再び一戦交える機会が訪れたとういのならこれ運命! ワシはもう一度徳川に一泡吹かせてやりたいぞ!」

信幸:
「何を申されるのですか父上! 平和な世があと少しで訪れるというにの、なぜそれに逆らい申される! 信繁・・・おぬしも何とか言ってくれ!」

信繁:
「私は真田の家に生まれた戦人。真田の棟梁たる父上が徳川と戦うことを選ばれたのならば、私はそれに従います。ただ目の前の敵と戦うことに全力を尽くすのみです。」

昌幸:
「こうなっては仕方ない・・・信幸、おぬしは徳川に味方するがよい。ワシと信繁は最後の最後まで武人として生きる道を選ばせて貰う。」

信幸&信繁:
「ち、父上・・・」

昌幸:
「そんな顔をするな。親子それぞれ自分の信じた道を進むことが出来るのならば、それはそれで素晴らしいことではないか。これで石田と徳川、どちらが勝っても真田の家も残るというものじゃ。はっはっは!」

昌幸と信繁は石田方に、信幸は徳川方に・・・こうして真田親子はこの地においてそれぞれの信じた道を歩むべく別れることになったのでありました。これが有名な犬伏の別れです。


兄は東へ弟は西へ

史跡探訪歴オタを自認するアタシですが、実はつい最近までこの新町薬師堂の存在はもちろん、その別れの地が犬伏という場所だったことを知りませんでした(^^; 
NHK大河ドラマの真田丸を見始めたことをきっかけに、改めて真田一族のことを調べているうちに、真田親子が軍議激論を交わしたと言われる場所が現存していることを知り、こうして慌てて見に来たというんですからアタシもまだまだ修行が足りません(><)
でもでもでも、勝手知ったる真田幸村のことですら、まだまだこうして知らない事実や史跡が出て来るのですから、歴史の勉強とは本当に楽しく奥深いものです☆
これからもいっぱいいっぱい、未開拓の史跡を発掘探索していきたいですね(^^)


犬伏の別れ・新町薬師堂
栃木県佐野市 佐野田沼インターから15分


その後ココチップ&ポポの3人でイモフライを食べに行きました☆



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