謎の越後国府に迫る 〜だから結局?国府という存在〜 (2022.12.9)

日本史における分かっていそうで分かっていないものその1、国府と国司。
国府とか奈良時代から平安時代におかれた県庁みたいなもののことで、国司というのはその政庁のエラい人のことだということはきっと皆さんもご存じのことかと思います。
・・・が、果たしてその国府と国司というものがいったいいつ頃まで機能したいたのかと言うと、これがいくら調べても分からないんですよ。
教科書通りの説明では、

国府と国司は鎌倉時代頃から守護や地頭からジリジリとその権限を奪われて行き、室町時代頃には消滅していた。

みたいな感じで語られることが多いのですが、これがアタシレベルで調達できそうな武士とか中世とか荘園なんかの解説書をいくら読んでみても、この程度の解説でしか無いのです。
ってことで改めて、「国府・国司」と「守護・地頭」の違いを簡単に説明すると

◆国府
朝廷の下部組織。各国の年貢を調達して中央に送るのが主な仕事。

◆国司
国府のエラい人。
上から順に守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)と呼ばれる。

◆守護
幕府の役職。一国の軍事警察権を司る存在。いつの間にやらそこに徴税権も加わる。

◆地頭
幕府の役職。守護の下位互換でより細かい地を収める役職であるが、最初から「徴税権」を持っていたのが守護との違い。

ってことで要するに、国府と国司は朝廷の組織で、守護と地頭は幕府の組織ってことです。ということは、この2つが同時に存在すると、庶民は朝廷と幕府の両方に税金を払わなくてはいけないということになってしまいます。でもそんなのは冗談じゃないってことで最終的にはこれが、武力を持った守護と地頭に機能が吸収されるのは自然な流れであるというのは簡単に想像がつくとは思います。・・・が、このより具体的な流れというのがいくら調べても前述のような簡単な説明で濁されてしまうのです。とりあえず摂関政治の全盛期頃は枕草子に中央から地方に赴任して行く国司の様子などが描かれておりますし、今昔物語には国司がいかに強大な権力者だったかを示す芋粥などの話が描かれておりますので、国府が正常に機能していたことは間違いありません。
ですが源頼朝が1180年に朝廷からもらった「寿永二年十二月宣旨」には

◆東国における荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙(国府と同義)へ回復させることを命じる。

という記述があります。また、その内容には年貢をしっかり中央に送ること的なものも含まれていたようですので、その権限は武士に浸食されてはいたものの、とりあえず国府はなんとか機能していたものと考えられます。

続いて、後醍醐天皇の建武の新政においては、

◆後醍醐天皇が国司と守護をそれぞれ任命する。

という内容でありますので、このころにはもう国司と守護がごっちゃ混ぜ状態になっていたことが確認できます。
そもそも鎌倉幕府と武家政治を徹底的に排除するというのが建武の新政のコンセプトです。それが武士の世を忌み嫌いぬいていた絶対権力独裁者・後醍醐天皇ですら幕府政治の象徴とも言える守護という役職を無くせなかったあたり、このころには国府というものは実質機能していなかったのではないかと思えます。もっとも、

◆所領の安堵については国司に任せる。

という内容もありますので、後醍醐天皇はどちらかというと国司の方を重視していたとは思えるのですが、果たして当時の国府がまともに機能していたのかどうかはこれだけでは分かりません。むしろ国府が有名無実化していたからこそ、このような復活宣言をしたということも考えられますので。

そのうえこの建武の新政は1年を持たずしてポシャってしまったので、それ以前はもちろん、それ以後の国府の実態がいったいどうなったのかもよく分からないのです。という訳で、数々の解説書を読んでみてもネットで調べてみても、
「鎌倉時代から実態を失っていき、室町時代に消滅した」
くらいのことしか書かれていないのですよ・・・
国府の末期っていったいどんな感じだったの?建物はちゃんとあったの?従業員はどうしていたの?年貢はどれくらい取ることができたの?それをしっかり中央に送ることできたの? そんな疑問が次々浮かび、とにかく分からないことだらけの存在・・・思いっきり身近でメジャーな歴史用語でありながらその実態はよく分からないという、なんともヤキモキしたもの、それがアタシにとっての末期の国府というヤツだったのですが・・・
それがなんと!つい先日、道すがらにこんな看板を見かけてしまったんですよ☆


「謎の越後国府に迫る」

これは絶対ぜひ是非行くしかあるまい! そう意気込んで乗り込んで行った新潟県埋蔵文化財センターだったのですが・・・


むむむむむ!?

なるほど確かにこの展示、越後国府の謎にかなりの度合いで迫っております!
・・・が、時代が古すぎるよ〜(><)


これはこれですごいんだけど・・・

この新潟県埋蔵文化財センターは考古学的な発掘作業を得意分野としている研究所のようで、本展示は国府の消滅の謎ではなくて、むしろその誕生の謎に迫ったものだったのです。


なるほど勉強にはなりました☆

この展示&冊子で勉強したところ、行政区画としての越後国が確定したのは712年頃のことであり、それから国衙と呼ばれる政庁はどうやら頚城郡にあったらしいであろうことなどなど、古代日本のことが色々分かっておもしろかったです。
・・・が、この冊子に言う越後の歴史は1185年の鎌倉幕府成立期で止まっており、その後のことは何書いていないところであります・・・

という訳で。
そんな太古の昔の日本の様子を発掘作業によって明らかにして行っている学者さん達の凄さに心の底から畏敬の念を感じました。でもそんな学者さん達ですら実態をつかむことが出来ない国府の末期っていったいどんだけ謎なんだYO!
越後国府の謎に迫りに行ってみたはずが、国府の謎はますます深まって行ったのでありました。


謎の越後国府に迫る
新潟県埋蔵文化財センター 2022年10月17日〜12月18日



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