得意なことを意味する十八番という言葉の語源となった、「歌舞伎十八番」の演目の一つである「勧進帳」の舞台となったとされるのがこの石川県小松市にある安宅の関所です。
この勧進帳とはどのような話なのかを簡単に説明しますと・・・
平安末期の混沌の世に彗星のごとく現れて源氏に勝利をもたらした不世出のヒーロー源義経ですが、いざ平家が滅んでしまうとその運命の歯車は大きくマイナスの方向に回り始めてしまいました。
義経の持つ天才的軍事センスは兄にして武家の棟梁・頼朝にとっては用済みのレベルを越えて、己が権力を脅かす恐怖の対象となってしまいます。結果、頼朝は義経を攻め立て追い込み、義経はわずかな手勢と共に逃亡指名手配の身となり果ててしまいます。
なんとかここを通らなければ・・・
かつて世話になった奥州の藤原秀衡のもとに落ちのびるべく、山伏スタイルに身をやつして北陸道をひた歩く義経主従の目の前に現れたのは安宅の関所。門番の富樫左衛門に職務質問をされた義経一行の先頭を歩く武蔵坊弁慶は、
「我らは焼失した東大寺再建のための勧進を行っている一行だ。」
と答えます。
すると富樫は
「それならば勧進帳を見せよ。」
と返します。
※勧進とは寄付を募る行為、勧進帳とはそのことを書いた巻物のこと。
さあどうする弁慶!?
義経一行は人目をはばかるためにコスプレしているだけのエセ山伏、もちろん勧進の事実も無ければ勧進帳なども持ってはおりません。しかしこの場をうまく切り抜けなければ正体がバレてしまうという大ピンチ!義経主従の運命はいかに!という場面おいて弁慶は!
なんと小道具に持っていた白紙の巻物を取り出して、スラスラと即興で勧進の題目を読み上げたのでした。
これぞ弁慶の十八番
富樫:
「ふうむ分かった。通ってよし! 気を付けて行かれよ。」
・・・と、なんとか通行許可をもらって関所を通り抜けようとしたその矢先、
富樫の部下:
「まてまてそこのヤサ男! おヌシ、現在指名手配中の源義経の風貌書きにそっくりではないか!」
などと言われてしまってのですからさあ大変!
今度こそピンチピンチの大ピンチ!そこで弁慶はなんと!
「お前のせいであらぬ疑いをかけられてとんだ無駄な時間を過ごすことなってしまうではないかバカモノがっ!」
と叫ぶや否や、主君の義経を錫杖にてメッタメタに叩きだしたのです!
富樫:
「分かった分かった、もうよいもうよい。早く行けっ!」
というふうに何とかその場を切り抜けたのでありました。
さてこの門番の富樫ですが、実は義経の正体はとっくに見破っていたのです。しかし心を鬼にし涙しながら主君を打ち据える弁慶の姿に心を打たれ、自らが罰せられることも覚悟のうえでついぞ見逃す決意をしたのでありました。
どうかお許しを!
それから暫く歩き、富樫の目の届かぬ所まで来たところで弁慶はドサリと膝を落とし頭を地面にすりつけて、涙ボロボロに義経に非礼を詫びたところ義経は
「そなたの機知こそ天の加護よ。さあ面をあげてくれ。」
と弁慶の手をとり、涙ながらに弁慶の功をねぎらったのでありました。
以上が勧進帳のお話のあらましなのですが、なんていうかもう、弁慶、義経、富樫の心情を創造しながら場面を思い浮かべるだけで涙があふれて来ますよね。さすがは最高傑作の歌舞伎演目の一つに数えられる十八番だけありますよ。
なお実際の勧進帳においては弁慶と富樫の間にはもっともっと激しい応酬があり、その丁々発止のやり取りが実に見事なもののようです。
・・・がしかし、残念ながらこの勧進帳のお話は史実ではありません。悲劇のヒーロー源義経を名残り惜しむ後世の人々が作り上げた鎮魂の物語なのです。
という訳で、今回アタシが訪れた安宅の関所跡及び弁慶謝罪の地は、本当に「勧進帳」な出来事があった場所という訳ではありません・・・
ですがこの安宅の関所跡は、弁慶と義経、そして勧進帳という物語を愛する人たちの間で江戸時代から脈々と受け継がれ語り継がれてきた聖地であることは間違いありません。
また、勧進帳という出来事は無かったものの、お尋ね者の逃亡犯として京から奥州まで落ち延びた義経一行には計り知れない苦労があったことも事実でしょう。
奥州はこの海の果て
安宅の関所跡・・・そこは源義経の悲運を偲ぶと同時に、後世まで愛され語り継がれるヒーローとしての姿を胸いっぱいに感じられる聖地でした。
安宅関跡
石川県小松市安宅町
弁慶謝罪の地
石川県能美市道林町106
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