赤穂城はその名のとおり、忠臣蔵で有名な赤穂藩のお城です。
大変だ大変だ!
1701年3月19日のこと、赤穂城に江戸からの早馬がつきました。
大石内蔵助の屋敷跡
城代家老である大石内蔵助がいったい何事かとその知らせ文を開いてみると・・・
なんと!去る3月14日、主君・浅野内匠頭が江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかるという事件を起こし、即日切腹・赤穂藩の取り潰しを申し付けられたというではありませんか!!
揺れる城内・・・
1週間後、大石は全藩士に登城を命じて今後のことを協議します。
もっとも協議も何も、こうなった以上、藩士はみな城を出て、今後の身の振り方を考えるしかないのですが、藩士の中には幕府の処分に納得行かない者も多々ありました。
そんなお城で大丈夫か?
「殿には切腹を申しつけながら、吉良を生かしておく幕府の仕打ちに納得できぬ! 断じて城を明け渡してなるものか!!」
そのように息をまき、籠城の覚悟を決める者がいれば、
「こうなったら、我ら家臣一同全員で切腹して幕府に抗議の意を示すしかあるまい・・・」
などという意見までも出ます。
また、赤穂城の混乱は赤穂藩家臣一同だけの問題ではありません。
「藩が取り潰されてしまったら、今までのツケや借金はどうなるんだ!!」
そんな心配をする商人たちまで押し寄せてくる有様です。
すったもんだがありました・・・
大石はまずは商人たちへの借金を清算し、過激なことをいう家臣たちのこともなんとか説得して幕府に城を明け渡すことを決定します。
「内匠頭様には弟の大学長広様がおられる。我らがおとなしく城の明け渡しに応じなければ長広様に迷惑がかかる。今我らに出来ることは、長広様を新たな藩主に抱いてのお家再興の嘆願をすることなのではないか?」
そのように言われては過激派たちも黙るしかありません。
さらば赤穂城
こうして赤穂事件から1月が経過した4月18日に赤穂城は幕府に引き渡されたのでありました。
大石の戦いはこれから始まる・・・
こうして赤穂城内の混乱は抑えたものの、赤穂藩というか江戸時代の藩というものは、地元の藩士のほかに江戸詰めの家臣というものがおります。江戸詰めの家臣には浅野内匠頭直参の子飼いの者が多く、そう言った者たちの忠誠の対象は、赤穂"藩"ではなく、浅野内匠頭個人に対するものなのです。
そんな江戸急進派たちにしてみれば、大学長広を立ててのお家再興などはどうでもよく、内匠頭個人の恨みを晴らすことこそが重要だったのです。
お家再興を目指す大石たちにとっては、このような江戸急進派の行動はハッキリ言って迷惑千番極まりないものであることは言うまでもありません。最初はそんな江戸急進派をなんとか抑えようとした大石でしたが、やがて大学長広の蟄居が決まり浅野家再興への道が絶たれると同時に、吉良上野介を討つことを決意したのです。
一度は幕府を相手に一戦を交えることも辞さない覚悟を決めた赤穂城・・・
大学長広を立ててのお家再興を目指し、必死の嘆願活動を行った赤穂城・・・
取り立てられるかチャラにされるか、血相を変えた商人たちが押し寄せた赤穂城・・・
大石内蔵助がそんなさまざまな混乱を抑え、ものものしい空気の中で無事に江戸勅使に明け渡すことを成功させた赤穂城・・・
それは紛れも無い元禄の世に出現した戦場跡でした。
赤穂城
兵庫県赤穂市
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